核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

戦争は人災であること―岩野泡鳴「戦話」を読んで

 岩野泡鳴の「戦話」(一九〇八)という、旅順要塞攻略の一兵卒を扱った短編を、青空文庫で読みました。その感想、というより、それを読んで考えた雑感を。

 確かに、戦争の悲惨さは描かれています。「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや」という、左腕を失った元兵士の言葉もあります。大石軍曹という上官が、戦争の中でまさに発狂していく様も描かれています。

 では、これは反戦小説と呼べるか。岩野泡鳴が国家主義者だったという作家論を抜きにして、この作品だけを分析対象にしたとしても、反戦小説とは呼べません。「戦争しとる」者の狂気は描いても、戦争させとる者の異常性は描いていないからです。

 悲惨といえば、放火やひき逃げも確かに悲惨です。しかし、放火やひき逃げの被害者の悲惨だけに注目し、被害者の半狂乱ぶりを露悪的に描いたとしても、それは放火やひき逃げの再発防止にはつながりません。放火やひき逃げが人災である以上、加害者のほうを捕まえ、それがいかなる狂気や異常性や悪意によってなされたのかをつきとめて、はじめて再発は止むのです。

 戦争も同じです。旅順攻略にかり出された兵士や軍曹は被害者であり、被害者の狂気や悲惨を描いたところで戦争再発防止にはつながりません。

 加害者、旅順戦ならステッセルや乃木、さらにその上の加害者であるニコライ二世や明治天皇の悪を描いてこそ、はじめて戦争再発防止につながるのです。

 同じく旅順戦を描いた芥川龍之介の「将軍」がかろうじて反戦小説たりえているのは、兵士の発狂のみならず、加害者N将軍の異常性をも描き得ている点です。もちろんNこと乃木将軍は日露戦争の指揮系統の中では中間管理職にすぎず、彼が日露戦争を起したわけでもないのですが、芥川の時代としてはせいいっぱいの抵抗だったといえるでしょう。