核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

もう悩むのはやめよう

 ありの~ままの~論文書くの~。というわけで、今回の論文では、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」および「ひらきぶみ」については批判のスタンスをとることにしました。

 ざっくりと説明すると、与謝野は「戦争ぎらひ」(「ひらきぶみ」中の言)ではあっても、反戦・平和主義者ではない、ということです。同じように見えるかも知れませんが、その差は以下の通りです。

 火事が嫌いなのは人間というもの誰しも同じです(放火魔だって、自分の家に放火して喜んだりはしないのです。戦争礼賛者が自分で戦場に出ないのと同じように)。しかし、火事が怖くて仕方がないとか、消火器を見るだけで身ぶるいするとかいう人に消防士はつとまりません。それと同じように、火事を防いだり消すためには、素朴な嫌悪や恐怖心を越えた、克己心が必要になると思うのです(念のために書くと、私がここで念頭においているのは軍人や自衛官ではなく、あるべき平和主義者のことです)。

 「少女といふもの誰も戦争ぎらひ」、平民社反戦を訴えていた社会主義団体)の議論など身ぶるいするといった与謝野の「ひらきぶみ」は、結局のところ戦争という現実から目を背けているだけで、平和主義とは呼べないのではないか。そして「旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事ぞ」と詠う「君死にたまふことなかれ」にもその批判はあてはまるのではないか。それが悪いとはいいませんが、そういう人ばかりでは戦争は止められないのではないか。現に「ひらきぶみ」には、「この戦勝てと祈り、勝ちて早く済めと祈り」とあります。

 以上が私の論旨です。再反論の余地はあると思いますが、それに対しては論文のほうで答えるということで。