核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大江健三郎 「洪水はわが魂に及び」の大地震観

 大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」(新潮社 純文学書下ろし特別作品 1973)を紹介します。
 この時期になんて不謹慎なタイトル、と思われるかも知れませんが、中身はもっと不謹慎です。
 
 「おれたちが大地震の東京のありとある場所で自動車をとめるのは、自動車にぬくぬくのっかている連中に、自動車などはただの古い機械だと思いしらせてやるためもあるんだよ、と多麻吉はいった。結局おれたちは大地震から早く海に逃げたいだけなんだがな、それを妨害するやつらの自動車は叩き潰すことになるだろう。それは小さい戦争だよ。警官や自衛隊員は、なにもかもをフェアにするための自動車破壊者の味方になるどころか、小汚い自動車をまもろうとする連中の番犬なんだからね」
 
 と称して高速道路で交通妨害を行う(語り手はそれを「大震災訓練」「自由に解放された特別区での無邪気なゲーム」と呼んでいます)、「自由航海団」なる組織。主人公の勇魚(いさな。仮名だそうです)はその光景を見て、「すべての若者たち(自由航海団)が、いま通過した怒れる自動車運転手たちとちがってそれぞれに生きいきと輝く顔をしていることにめざましい印象をうけ」ます。そりゃ、高速道路でお急ぎのところを妨害されて、「生きいきと輝く顔」になる運転手はいないでしょ。
 
 この自由航海団の目的はというと、
 「多麻吉(団の軍事専門家)はじつは大地震を惧れているのじゃなくて、むしろ待ち望んでいるんですよ。この世界の自然や社会の秩序がひっくりかえって、大地震の後は火災とペストが荒れくるって、海上の「自由航海団」だけがあとに残ればいい、というんですね。だから軍事教練にしても、喬木(たかき。団のリーダー)の方では大地震のあとで「自由航海団」の船がうばわれないように、自衛する目的なんですよ。ところが多麻吉は、大地震が起らなければ、武装して全東京に攻撃をしかけて、自分たちで大混乱を造りだそうという考えの、そういう軍事行動の訓練でね」(157ページ)
 
 …どうみてもオオエ真理教です。
 一応、勇魚には、自称「鯨と樹木の代理人」という大義名分らしきものがありまして、自由航海団をその「Prayer」(信者?)と位置づけているのですが、その彼らの実際の行動はというと。
 「このあたり(伊豆)の連中はその季節になると、イルカを幾百、幾千と湾に追いこんで殴り殺すというぜ。連中の船を爆破してやるのは「鯨の魂」の供養にならないかね? イルカも鯨の仲間だろう?」
 といったレベルです。
 私はアニマルライツ(動物の権利)の信奉者ではないし、むしろ人間至上主義者なのですが、それでもこの小説がクジラさんや樹木さんに喜ばれるとは思いません。航海団がスパゲッティやコーンビーフを食べ散らかす場面もありますが、小麦や牛の権利について何かを考えている様子はまったくありません。
 牛はクジラより知能が低いから?それだったら、作中で航海団にリンチされる未来評論家の差別思想と同じでしょうに。
 主人公には例によって障害のある息子がいるのですが、航海団は彼を人質にしたあげく、こう言います。
 「(説得にきた勇魚の妻が)知恵遅れの子供とか精神薄弱とか繰りかえしているのも、機動隊員の差別意識をあおることになるよ。連中は、普通でない子供に酷たらしいことをしたがるようなメンタリティの若者なんだからね」
 どうみても、機動隊員を差別しているのは航海団のほうです。1973年という時代の狂気(機動隊員が悪者あつかいされる時代だったのです)に媚びた小説としかいいようがありません。
 (以下ネタバレ)
 漁師やドカタや警官や機動隊員を何人も犠牲にしたあげく、核シェルターにたてこもった航海団は壊滅するのですが(障害のある息子を解放したのが、せめてもの救いです)、主人公は樹木と鯨の魂にむけて最期の言葉をおくります。
 「すべてよし!」
 
 …ちっともよくないっ!
 こういう小説家がノーベル文学賞を受賞して、世界各国の言葉に訳されているかと思うと悲しくなります。
 記憶してください。彼はこ~いうふ~にして生きてきたのです。