核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

クルクルドアン ノ シマ

 『ククルス・ドアンの島』(6月公開の映画)の間違いではありません。こちらも『機動戦士ガンダム』由来ではありますが。

 1989年発売ですが、いまだにガンダムゲームの最高傑作と呼び声が高いファミコンソフト、『ガチャポン戦士2 カプセル戦記』。その第二面が、海に渦巻き状の島が配置された「クルクルドアン ノ シマ」でした。海では水陸両用のZGOK,ZOGG、CAPURE(スペル合ってるかな?)がやたら強く、1600円かけて作ったGUNDAMをあっさり700円だかのZGOKに沈められたものです。なおZAKUは100円。

 ガンダム本編の、特に「ククルス・ドアンの島」にみられる哀調とはまったく別物の、遊び心あふれるガンダムゲームでした。「ククルス・ドアンの島」が映画化されると聞いて懐かしくなり、つい書き込んだ次第です。

 

穆雪梅 「『玉水物語』と「封三娘」(『聊斎志異』)の比較 ──影響関係に関する有無の再検討を中心に── 」

 ネットで「封三娘」を検索したら読めた論文です。発表媒体は残念ながら不明ですが、穆氏は『お伽草子における異類物の文学的意義 : 動物物を中心に』という博士論文を書いていらっしゃる方であり、この分野の専門家といえそうです。

 『玉水物語』は室町時代の物語で、梗概は以下の通り。

 

   ※

 一匹の狐が花園で姫君を見初め、恋におちてしまった。狐は人
間の男に化けて、自らの恋を成就させるのではなく、少女に化け
て姫君に仕えることにした。狐は姫君の幸を見届けるまで、その
側から離れることもなく、一途に姫君を慕い続け見守りを続けた。
最後は姫君に自分の正体及び姫君を見守る気持ちを述べ、姫君
の入内の日に姿を消した。

   ※

 

 『玉水物語』『封三娘』ともに、狐の本来のジェンダー(性別)は明らかにされていないのですが、同論文は両作品を「『玉水物語』「封三娘」は、雄狐が人間の女の姿になって恋する人間の女に近づくことで純愛を貫いた雄狐と人間の女との恋愛物語として理解できる」と結論なさっています。つまりレズビアン狐ではなくトランスジェンダー狐の物語であると。興味深く拝読しました。

 

 ・・・・・・ここから先は核通氏いわく。室町時代にも清代文学も素人の意見です。

 狐というものがもし、ジェンダーを自在に変えられる妖怪として設定されているとしたら、その「本来の性別」が雄狐か雌狐かを問うことは、物語内に明記されていない以上、不当なのではないかと。封三娘に化けた(あるいは性転換した)狐に「本質」がもしあるとすれば、「人間の女性として、人間の女性を愛したい」というセクシュアリティだけがその本質なのではないでしょうか。私としては『玉水物語』と『封三娘』相互の影響関係よりも、それら二つの作品を生み出した、同根の欲望のほうが気になります。

 私は『ジェンダー・トラブル』さえ通読していないので、LGBTQ方面に深入りはしないでおきます。

 

蒲松齢『聊斎志異』より「封三娘」(青空文庫  田中貢太郎訳)にみるセクシュアリティ

清代の怪奇短編小説集『聊斎志異』(りょうさいしい)の一編。

青空文庫で読めます。これはという印象を受けました。コピペしてみます。

 

   ※

 范はん十一娘は※城ろくじょう[#「田+鹿」、330-1]の祭酒さいしゅの女むすめであった。小さな時からきれいで、雅致がちのある姿をしていた。両親はそれをひどく可愛がって、結婚を申しこんで来る者があると、自分で選択さしたが、いつも可よいというものがなかった。
 ちょうど上元じょうげんの日であった。水月寺の尼僧達が盂蘭盆会うらぼんえを行ったので、その日はそれに参詣さんけいする女が四方から集まって来た。十一娘も参詣してその席に列っていたが、一人の女が来て、たびたび自分の顔を見て何かいいたそうにするので、じっとその方に目をつけた。それは十六、七のすぐれてきれいな女であった。十一娘はその女が気に入ってうれしかったので、女の方を見つめた。女はかすかに笑って、
「あなたは范十一娘さんではありませんか。」
 といった。十一娘は、
「はい。」
 といって返事をした。すると女はいった。
「長いこと、あなたのお名前はうかがっておりましたが、ほんとに人のいったことは、虚じゃありませんでしたわ。」
 十一娘は訊きいた。
「あなたはどちらさまでしょう。」
 女はいった。
「私、封ふうという家の三ばん目の女ですの。すぐ隣村ですの。」
 二人は手をとりあってうれしそうに話したが、その言葉は温おだやかでしとやかであった。二人はそこでひどく愛しあって、はなれることができないようになった。

   ※

 

 女性は纏足(てんそく。人工的に足を小さくする処置)を施され、恋愛どころか外出の自由すらままならない時代の話です。

 その後、范十一娘は封三娘のすすめる男性と結婚するわけですが、二人の関係はその後も続きました。

 

   ※

 十一娘は三娘にうちとけていった。
「私とあなたとは、ほんとうの兄弟も及ばない仲ですのに、それが長く一緒にいられないのです。蛾皇女英がこうじょえいになろうじゃありませんか。」

   ※

 

 蛾皇と女英とは、中国古代の王、堯の娘二人で、ともに舜の妃になった姉妹です。そして封三娘のカミングアウト。

 

   ※

 「こうなれば私もほんとのことをいうのです。私は狐です。あなたの美しい姿を見て、あなたをしたって、繭まゆの糸のようにまとっていて、こんなことになったのです。これは情魔の劫ごうです。人間の力ではないのです。再びとどまっておると、魔情がまたできます。あなたは福沢が長いから体を大事になさい。」
 といいおわっていってしまった。

   ※

 

 謎の美女の正体が狐だった、というのは『聊斎志異』のお約束の一つなのですが、「魔情」のありようが他作品とは違っています。

 『聊斎志異』の短編の末尾には、たいてい「異史氏いわく」とかいって、蒲松齢の短いコメントがつくのですが、この作品にはないようです。こういう作品にこそ必要だというのに。

 しかたがないので核通氏いわく。封三娘は本当に狐だったのでしょうか。

 

板倉 圭佑「戦争と友愛のはざまで : ジャック・デリダと政治的なもの」『 法學政治學論究 : 法律・政治・社会』126 67-100, 2020-09(読む予定)

 「シャンタル ムフ」で検索したら出てきた論文です。

 読めば今すぐ戦争がなくせる、というわけでもありませんが、原点に立ち返って考える必要はありそうです。

『日本文学』10月号特集 「文字」と「声」の往還

    ※

 10月号特集 「文字」と「声」の往還
 
   新型コロナウィルス感染症の長期化もあり、コミュニケーションがメールやSNS等を使用した文字に偏る傾向にある。発音されることを前提としない記号混じりの流行語まで生まれるようになった。一方では、文字の読み上げソフトの発達も著しい。「文字」と「声」との往還は、現代日本語において新たな一面を展開していると言えるだろう。今、「声」と「文字」との関係を捉えなおしたい。
 「声」を文字化することは、漢字の使用をはじめた時から言文一致運動の近代を経て、現代にいたるまで常に文学の大きな問題であった。日本語は、漢語によって自立語が拡張されると同時に、表記に大きな制約を受けた。その制約こそが和文体を作ったとも言える。仮名文字との混用文となっても、「文字」を「声」に出して訓むためには「文字」の外にある様式や解釈を踏まえる必要があった。和歌・連歌俳諧が、長きにわたって文学の軸にあり続けたのは、「文字」と「声」との特別な距離感がそこに存在していたことと切り離せないだろう。『梁塵秘抄』の成立は「声」を「文字」に残そうという試みでもあった。
 中世軍記・説話には様々な擬声語・擬態語も登場した。その一方で、いわゆる声点本の増加は「文字」から「声」への関心の高まりを示したものと位置づけうる。近世は、俗語や口語の文字化が進んだ時代であった。古典注釈における俗語訳、洒落本や滑稽本における口語調文体、講談や落語の口話の速記記録などは、「声」を文字化する試みであったし、歌舞伎や人形浄瑠璃のような演劇の世界では脚本の「文字」を「声」にする技術が錬磨された。言文一致運動の時代には、階層やジェンダー、地域などにおける多様な言葉をどのように言語化してきたのか(できなかったのか)という問題がある。以降、メディアはますます拡張し、「詩」の表現や朗読、演劇や脚本、ラジオドラマなどに関わって、「文字」と「声」の往還関係は複雑さとスピード感を増した。
 これまで、「文字」を中心になされた書誌学的研究や、版本の書字・文字様式の問題、原稿執筆の問題、伏字や検閲の問題も、「声」との関わりを考察することで新たな視座が拓けるかもしれない。国語教育の現場における朗読なども大切な「文字」と「声」の往還である。オンライン授業に取り組まざるを得なくなった今、教室での国語教育はどのように展開されているのだろうか。
 本特集は、「文字」から「声」を発する、「声」を「文字」にするという往還関係に注目することで、「日本語の文学」研究に一定の視座を与えようとするものである。統一号の特集なので、全ての時代と国語教育に関する論文を期待している。
    
     記

 一、締切 2022年7月15日
 一、枚数 35枚(400字詰)以内

   ※

 

 「歌舞伎や人形浄瑠璃のような演劇の世界では脚本の「文字」を「声」にする技術が錬磨された」か。ワンチャンありかな・・・・・・。

 

『三国志演義』における鍾会

 しょうかい。魏の武将で、知識人としても文名があったようですが。今回は『三国志演義』限定の話です。

 ついに蜀の征服をなしとげ、よからぬ心を抱いた鍾会のセリフ。

 『演義』は今手元にないのでうろ覚えですが。

 

 「この地で割拠すれば天下を狙えよう。まかり間違っても玄徳くらいにはなれるというものだ」

 

 ・・・・・・ひどいと思いませんか。ぽっと出敵役の分際で前半の主人公を「まかり間違っても玄徳くらい」。

 この場面まで読んできて、なんか玄徳や孔明の遺業が急にちっぽけな徒労に見えてきて、しかし決して不快ではない、脱力感に見舞われたのを覚えています。

 完読せずに最後だけ読んだんですけど、『紅楼夢』のラストもなかなかでした。またいずれ。