核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ヒューム「原始契約について」の名誉革命批判

 『世界の名著32 ロック ヒューム』(中央公論新社 1980)に収録された、ヒュームの1748年刊行の論文です。
 ヒューム(1711~1776)は名誉革命(1689年)を体験してはいない世代ですが、名誉革命や社会契約論の過大評価に疑問を持ち、以下のように書いています。
 
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 名誉革命の成果に眩惑されたり、あるいは政府の起源に関する哲学的理論に熱中したりするあまり、そのような理論に合わないすべての政府は奇怪であり、変則であるなどと考えてはならない。
 名誉革命でさえ、そのような精妙な理論には一致するどころではなかった。そのとき変革されたのは王位継承だけであり、したがって政府といっても王位に関する部分だけに過ぎなかった。しかも、一千万近い人民に対してこのような変革を決定したのは、多数といってもたった七百人に過ぎなかった。(略)
 だがこの問題は、ちょっとでも人民の選択に委ねられたといえるだろうか。黙諾の瞬間からすでにそれは決まったのだと正当にも考えられ、以後、新国王への服従を拒むものはすべて処罰されたのではなかっただろうか。
 (542ページ 傍点は下線に改めた)
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 と辛辣なことを言っていますが、ヒュームは王権神授説に戻ろうとしているのではありません。
 仮に世界のすべてが神の摂理だとするなら、山賊や海賊の存在も神の摂理ということになる、国王だけが特別に神聖だとする筋合いはない(536ページより要約)と、さらに過激なことを書いています。
 ヒュームは私と同じく、王権神授説も社会契約説も信じていないようです。ホッブズやロックが何と言おうと、現実の国家は人民の契約ではなく、「ほとんど全部が、権力の奪取かそれとも征服に、あるいはその両方に起原を持って」いる(541ページ)と、ヒュームは断言します。
 ロックの『統治論』より先にこっちを読んだのは失敗だったかもしれません。以前からうすうすホッブズやロックのキリスト教的建前主義にはついていけないものを感じていましたし、特にホッブズの『リヴァイアサン』の独善ぶりにははっきり反発を覚えていたのですが、ヒュームに先に言いたいことを言われてしまった感があります。
 これから『統治論』を読むわけですが、なるべくヒュームとかぶらないよう、ロックから学べるところは謙虚に学んでいきたいと思います。