核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ロックの王権神授説批判

 『世界の名著 32 ロック ヒューム』(中央公論新社 1980)収録の『統治論』より。
 『統治論二篇』または『市民政府二論』(原題は"Two Treatises of Government"。1688刊行)の後半部分にあたります。
 フィルマーの王権神授説を批判しているのは前篇部分だそうですが、その結論は後篇冒頭にまとめてあるので引用します。
 
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 私は、前編でつぎのことを明らかにした。
 第一に、アダムには彼の子供たちを支配する権威や世界を治める支配権があったようにいわれるが、彼には、そんなものは父親であることによる自然の権利によっても認められていなかったし、また神から明らかに贈与されたという形跡もない。
 第二に、かりにアダムにあったとしても、彼の後継者たちにはその権利はなかった。
 (略。そもそも現在の支配者がアダムの正当な後継者だという証拠などないことを述べた後に)
 したがって現在の地上の支配者たちは、いっさいの権力の源といわれているアダムの私的な支配権と父権からは何らの恩恵も受けられないし、権威の片鱗すら引き出すこともできない。
 (略。父親の権力と政治的権力は違うものだと述べた上で)
 私は政治的権力とは、つぎのようなものだと考える。すなわち、所有権を調整し保全するために死刑、およびそれ以下のあらゆる刑罰をふくむ法律をつくり、このような法律を執行し、外敵から国家を防衛するにあたって共同社会の力を使用する権利のことであり、しかもおしなべてこのようなことを公共の福祉のためにのみ行なう権利である、と考えるのである。
 (『統治論』第一章 上掲書193~194ページ)
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 ロックは死刑や自衛戦争は否定していないのですが、そこまで求めるのは、ないものねだりでしょう。いずれ引用しますが、ロックは無抵抗主義者ではないのです。
 重要なのは最後の一行です。権力とは神から与えられたものではなく、「公共の権利のために」存在するものであると。
 あたりまえのように思われるかもしれませんが、そうではありません。王権神授説というのは一七世紀の英国にだけあったのではなく、同じような主張は世界中たいていの国にあるのです。
 たとえば私の専門である明治日本。上の文章の「アダム」を「神武天皇」におきかえたとしたら、その主張の意義がわかりやすくなるかと思います。「政治とは天皇の為ではなく、公共の福祉のために存在すべきである」と断言できた明治の思想家が、果たしてどれほどいたでしょうか。