核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ホッブズ『リヴァイアサン』における平和観の問題点

 ホッブズの言う平和とは国家「内」の平和に限られており、国家「間」の平和ではない。それが問題点です。
 「自然状態は万人の万人に対する戦いであり、コモン‐ウェルス(国家)とはその状態を脱するために設立された」というのが『リヴァイアサン』の主題です。そしてホッブズは、いったん設立された国家の主権者に国民は服従すべきであり、主権者への反抗は平和を乱し戦争状態を招くと、たびたび論じています。
 しかし、ホッブズは主権者の権利について、こうも述べているのです。
 
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 第九に、主権には、他の諸国民やコモン‐ウェルスにたいして宣戦・講和を行なう権利がふくまれる。(略)
 人民を防衛すべき力は軍隊にあり、軍隊の強さというものは、一つの指揮権のもとに、その力を結集することにある。この指揮権は、主権者が設立したものであり、それ故に、主権者がもつものである。
 (『世界の大思想 13 ホッブズ河出書房新社 1966 第2部 第十八章 「設立による主権者の諸権利について」 120ページ)
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 同じ章の末尾でホッブズは、「内乱のさいの悲惨で恐るべき災厄と、あの支配者のいない人びとの無法状態(略)にくらべると、ある統治形態において、一般人民に起こりうる最大の不便さえも大したことはない」と述べています。
 『リヴァイアサン』にはしばしば「平和」という語が出てきますが、ホッブズにとっての「平和」の反対語は、「無政府状態」であり、「戦争」ではありませんでした。国家どうし、主権者どうしの戦争が国民にもたらす害については、ホッブズは何も語っていません。
 もちろん、無政府状態や内乱が悲惨であることは、1651年の当時も2013年の現在でも変わりはありません。しかし、それを避けるためには絶対的主権への服従あるのみというホッブズの結論にも、民主主義者にして平和主義者としては断じて賛成できません。
 結局のところ、ホッブズの平和観の貧しさは、彼の人間観そのものの貧しさに由来すると思うのです。
 あまり言及されない第1部「人間について」や、第4部「暗黒の王国について」も今回は読んだのですが、前者はデカルトの『情念論』に比べても明らかに劣ります。
 「暗黒の王国について」は、おもにローマ・カトリック教会の腐敗堕落ぶりを「サタンの支配下にある暗黒の王国」であると批判し、ヘンリ八世とエリザベス女王が悪魔払い(国教会設立のこと)によって法王制を英国から追い払ったことを評価する内容です。
 トンデモ本としてもあんまり面白くない内容ですが、最後に「シナ、日本およびインドという、かれらにわずかしか果実をもたらさぬ乾燥地方」とあったのはちょい受けました。このじめじめ国のどこが乾燥地方ですか。カトリックの布教が根付かなかったという点ではたしかに不毛地帯ですけど。