以下のような臼ひき歌が引用されています。
悪をきらふを善じやとおしやる
嫌う心が悪じやもの
悪への憤り自体は悪いことではない、と私は考えます。しかし、それが悪人への憎悪にまで増大し、「悪人が相手なら何をやってもいい」にまで至ると、それはもう義憤の域を超えた、悪そのものと大差ないものになってしまうわけです。
少なくとも平和主義、民主主義の支持者を自任する者は、上記の臼ひき歌の精神を忘れずにいたいものです。
以下のような臼ひき歌が引用されています。
悪をきらふを善じやとおしやる
嫌う心が悪じやもの
悪への憤り自体は悪いことではない、と私は考えます。しかし、それが悪人への憎悪にまで増大し、「悪人が相手なら何をやってもいい」にまで至ると、それはもう義憤の域を超えた、悪そのものと大差ないものになってしまうわけです。
少なくとも平和主義、民主主義の支持者を自任する者は、上記の臼ひき歌の精神を忘れずにいたいものです。