核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

黒島伝治 「反戦文学論」(1929(昭和4)年) その2

 黒島伝治が世界最古の反戦文学と認定した、マイカこと旧約ミカ書。英語読みならマイカ、フランス語だとミシェ。 わざわざ一般的でない読みにする必然性などないので、以下ミカ書と表記します。引用はwikisource様より。
 
   ※
 ミカ書 5章 
 主は言われる、その日には、わたしはあなたのうちから馬を絶やし、戦車をこわし、
 あなたの国の町々を絶やし、あなたの城をことごとくくつがえす。
 またあなたの手から魔術を絶やす。あなたのうちには占い師がないようになる。
 またあなたのうちから彫像および石の柱を絶やす。あなたは重ねて手で作った物を拝むことはない。
 またあなたのうちからアシラ像を抜き倒し、あなたの町々を滅ぼす。
 そしてわたしは怒りと憤りとをもってその聞き従わないもろもろの国民に復讐する。
   ※
 
 確かに4章では、遠くの強い国々は「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直」すようになるとか預言してはずなんですけど、それは「怒りと憤りとをもってその聞き従わないもろもろの国民に復讐する」ための方策にすぎない、としか私には読めないわけです。他国には武器を手放すよう要求して、自分たちはそうしないわけですから。
 それを平和主義というのなら、秀吉の刀狩だって、強盗の「手を上げろ」だって平和主義になりかねません。
 (いや、実際私は名古屋黒川の2人組強盗に非暴力かつ紳士的な抵抗を試みた所、「こいつこえ~よ」「あぶね~」との捨てゼリフとともに逃げられた経験があるのです。まじで)
 こんなものを反戦文学の先駆と呼ぶ黒島伝治は何を考えているのか。「反戦文学論」にもどります。青空文庫さまより引用。
 
   ※
  二、プロレタリアートと戦争
      一
 プロレタリアートは、社会主義の勝利による階級社会の廃棄がなければ、戦争は到底なくならないということを理解する。プロレタリアートの戦争に対する態度は、ブルジョア平和主義者や、無政府主義者や、そういう思想から出発した反戦文学者とは、原則的に異っている。被支配階級が支配階級に対してやる闘争は必要で、進歩的な価値があると考える。奴隷が奴隷主に対しての闘争、領主に対する農奴の闘争、資本家に対する労働者の闘争は必要である。戦争には、残虐や、獣的行為や、窮乏苦悩が伴うものであるが、それでも、有害で反動的な悪制度を撤廃するのに役立った戦争が歴史上にはあった。それらは、人類の発展に貢献したことから考えて是認さるべきである。
   ※
 
 ・・・「悪制度を撤廃するのに役立った戦争が歴史上にはあった」まで読んだ。
 もしかしたら、それが世間の常識なのかもしれません。
  ただ、世間の常識と呼ばれるものを頭から信じてかかるぐらいなら、文学研究者など必要ないわけで。
 私が今回書こうとしている論文は、「たとえ人類の発展に貢献するとしても、戦争は是認されない」という、マルクス主義者なんかにはものすごく反動的にとられそうなテーマなのです。
 若くしてシベリア出兵戦争を体験し、その後1943(昭和18)年までの短い生涯を反戦文学にささげた黒島伝治の生き様には敬意を払いますが、彼の意見には賛成できません。
 反論が形をとってくるまで、もう少しお待ちください。