宮沢賢治「烏の北斗七星」についての小論を書き終えての雑感です。
北斗七星を「マヂエル様」と呼び、
「あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。」
と祈りながら、山烏との終わりなき戦争を続ける烏の大尉(結末で少佐に昇進)の童話です。
このマヂエル教というのは、どうも邪教なのではないかと思うのです。
いや、もちろん北斗七星は地球から見えるただの星座なので、その星座が烏や山烏を操って殺し合わせているわけではもちろんありません。逆に、ただの星座に殺し合いを止める力があるはずもありません。宮沢賢治は国柱会の熱心な信者だったかも知れませんが、マヂエル様を信じていたわけではありません。
そうじゃなくて、戦争へのためらいや罪悪感や恐怖や疑問を、マヂエル様への祈りが、すっきりと解消してしまう機能を果たしているといいたいのです。実際、大尉烏は発見した山烏をつつき殺すことに、何の躊躇もしていません。
「鰯の頭も信心から」の逆といいますか、存在しない神への祈りが、結果として戦争を促進しているわけです。本気で戦争を止めたいなら、祈るのではなく疑い、戦争へのためらいや罪悪感や恐怖や疑問を解消しないことです。マヂエル教に限ったことではありません。