核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

サイコロは祈りを聞き入れない。

 『源氏物語』に出て来る近江の君という双六好きの女君は、双六で明石の尼君の幸運にあやかろうとして「明石の尼君明石の尼君」と呪文のような言葉を唱えているそうです。もちろん近江の君はテレキネシスなど使えないので、サイコロの目に影響することはありません。実在の白河上皇も、双六のサイコロは意のままにできないと嘆いています。

 私に言わせればサイコロとは、「祈りは聞き入れられない」ということを人類に教えてくれる装置です。だからこそ、私はこの歳になってもサイコロゲームが好きなのです。

 そろそろ「烏の北斗七星」論を書かねばならない時期なのですが、あちらは山烏との戦争を続け、山烏をつつき殺した功績で大尉から少佐に昇進しながらも、ひそかな平和への祈りをやめられない烏の物語です。

 

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 (あゝ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)

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 いかにも宮沢賢治作品らしい祈りなのですが、この祈りがかなうことはないでしょう。近江の君が意のままにサイコロを操れないのと同じように。

 この世はすべて偶然だとか、そういう虚無的な世界観を展開したいわけではありません。この世には偶然もあれば必然もあるでしょうが、少なくとも、祈りで平和が実現するような、甘い構造はしていないと言いたいのです。

 しかし、ツイている人の幸運にあやかりたいとか、巨大な存在に力を借りたいとかいう望みも、人間性の一部なのではないか、という異論もあるかも知れません。確かにそれらも人間性の一部でしょうが、世界平和に益するかは疑問です。

 「烏の北斗七星」を読む限り、祈りはむしろ戦争遂行への疑問や不安をすっきりと解消してしまう役割を果たしてしまっています。本気で戦争を止めたいのであれば、祈ったりせず、戦争への疑問を自分の中で育て続ける方がいいのではと、私は思います。