核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

熊谷直実の厭戦情動

 前回は、戦争を止めうる情動の一つとして、「笑い」「爆笑」について書きました。ハプニングによって、敵も味方も爆笑してしまう場面は確かにあったものの、それは一瞬であって、宇治川の合戦を止める力にはならなかったことも。

 今回は、それと逆に見える情動、「痛ましさ」が、敵味方の憎悪を和らげる力となった例を引用します。これも戦争そのものを止める力にはならなかったわけですが。

 『平家物語』巻第九、「敦盛」。一ノ谷の合戦で源氏方の熊谷直実が敵将を捕らえたものの、見ればわが子の小次郎と同じくらいの十六七の若武者。なんとか助けようとするのですが、後方から味方の軍勢が来たために見逃すわけにもいかず、泣く泣く熊谷はその平敦盛の首を取り、述懐します。

 

 「哀れ弓矢取る身程口惜しかりける事はなし。武芸の家に生れずは、何しに只今かかる憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉つたるものかな」

 (講談社版『平家物語』下巻 一七二頁)

 

 この後熊谷は仏教への「発心」を起こし、法然上人に帰依したそうですが(注によると別の事情もあったそうです)、それには賛成できません。

 あえて二〇二三年の価値観で裁かせていただきますが、現世を捨て、来世で極楽浄土を願うなんていうのは逃避です。本当に敦盛をはじめとする戦争の犠牲者を痛ましく、「憂き目」だと思うのであれば、現世の方を戦争のない世にするよう努力するべきでした。無理な注文とは思いません。向戌や村井弦斎はその方向を目指したのですから。

 熊谷直実を責めても仕方がないことですが、宗教による平和への働きかけには、一定の限界があることを認めなければなりません。ローマ教皇イスラエルハマスに停戦の呼びかけをしたそうですが、効果はあがっていません。その宗教の信者でない人々には、宗教の権威は効果がないのです。

 だからこそ、宗教以前の厭戦感情、先の熊谷直実の述懐のような情動を大事にすべきなのです。

 宇治川の爆笑。一ノ谷の痛ましさ。情動の方向としては反対方向ですが、いずれも戦争にあらがい得る情動です。それらを瞬間的な発動ではなく、持続可能な平和につなげる方法はないものかと、私は考えています。