核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

厭戦感情を、持続可能な戦争否定の論理へつなぐ言葉

 前々回、前回と、戦争中に参加者たちを襲った「爆笑」や「痛ましさ」という感情が、戦争を一時的に和らげたこと、しかしそれは持続可能な平和にはつながらなかったことを書きました。

 たとえば熊谷直実は、捕まえた平敦盛が自分の子と同じくらいの若者であることに憐れみを感じるものの、それを味方に説明する言葉を持たず、共有できなかったために、ついに敦盛を死なせることになってしまいました。

 感情論が悪いとは言いません。厭戦、戦争嫌いという感情は大事にすべきです。しかし、感情論「だけ」では、戦争を止める力にはなりません。せいぜい、自分だけが出家して、戦乱の世から遁世しようといったところが限界です。

 では、感情ではなく論理で、戦争を止める言葉を語りうる人物は『平家物語』にはいないのかというと。います。彼も武士なので戦争全否定ではなく、個別の死刑反対や暴力否定なのがちょっと残念ですが。

 核通の推しキャラ。平重盛(たいらのしげもり)。平清盛の長男ですが、ことあるごとに清盛のわがままを道理ある意見で止める人物です。

 平家打倒の計画が発覚し、激怒した清盛は大納言成親(「ヘイジが倒れた」発言の人)を処刑し、首謀者の後白河法皇を監禁しようとするのですが、重盛はその両方に反対します。軍兵も連れず、鎧も着ず平服のまま清盛の前に進み出て。

 聖徳太子十七条憲法の第十条など引用して、清盛の怒りを静めます。『平家物語』の引用文でははしょってあるので、ここでは脚注にある第十条を引用します。

 

 「我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず、共にこれ凡夫のみ。是非の理、誰かよく定むべき、相共に賢く愚なり」

 (講談社版『平家物語』上巻 一四二頁 脚注より)

 

 自分が絶対に正しいとは限らないし、相手が絶対に間違っているとも限らない。これはポストモダニストの文化相対主義なんかとは似て非なる、平和につながりうる、高度な認識のありかたです。

 重盛の説教は長く(「小教訓」「教訓」とついた章があるくらいです)、「こんな説教息子は嫌だ」という感想をどこかで読んだ記憶もあります。

 が、その長い説教の中で、重盛が「民の為には、ますます撫育の哀憐を」と論じているのは注目に値します。「民の為」「哀憐」。ほかの登場人物たちが重盛のように考えていたなら、源平の合戦など起きなかったでしょう。

 平重盛厭戦感情を論理(彼自身の言葉でなら「道理」)に翻訳することのできた、希有な人物です。武士とはいえ、平和主義者は彼から学ぶべきです。「戦争は嫌だ」を「戦争はこうして止める」に育てるために。