『平家物語』は私にとっては専門外の分野ですが、まんざら興味本位やゲーム化のためだけに読んでいるわけではありません。
「異質な共同体の間で、持続可能な平和はいかにして可能か」
といった問題意識を持ちつつ、『平家物語』を読んでいます。
源氏と平家、武士と公家。異質な文化、生活様式を持つ共同体の間では、平和は成立しにくいものです。
「同じ日本人どうしなのに、なんで戦争ばかりしているのだろう」
といった感想は、それこそ国民国家成立以後の常識を、それ以前の歴史に押しつけるものであって、ひとまずは退けねばなりません。源氏にとっての平家や、公家にとっての武士は、「同じ日本人どうし」ではないのです。ロシア人にとってのウクライナ人や、イスラエル人にとってのパレスチナ人が(逆にしても同じことですが)、「同じ人間」という意識を持てないように。
では、「同じ人間」とは思えない者たちどうしの間で、平和は不可能なのでしょうか。私は人間共通のある情動に、望みを託しています(「愛」だとかは言わないので安心してください)。
「笑い」です。他者を嘲りおとしめる「嗤(わら)い」ではなく、共同体間の敵対関係などどうでもよくなるような、爆発的な「笑い」。
前者の「嗤い」「嘲笑」の例は、『平家物語』にもしばしば見られます。
後白河法皇は「瓶子(平氏)が倒れた」というギャグに嗤い、公家社会を知らない木曽義仲は訪問してきた猫間中納言に「猫どの」とあだ名をつけて嘲ります。そして、義仲自身も公家社会から嘲られます。
異質な共同体の成員を、自分が属する共同体の基準に照らして嘲笑することは実に容易なのです。が、それは私が考えている、平和につながる笑いではありません。
では、「嘲笑」ではないタイプの笑いはというと。
巻第九。先陣争いで知られる宇治川の合戦。馬を流された大串重親は、自分も流されそうになったところを大力の畠山重忠に助けられ、対岸まで投げられます。体勢を立て直し、「大串次郎重親、歩立(かちだち)の先陣ぞや」と名乗ります。
「敵(かたき)も御方(みかた)もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける」(講談社文庫『平家物語』下巻 一二二頁)
ここで起きた爆笑は、必ずしも嘲笑ではない、と思います。畠山のファインプレーと、大串のお調子者ぶりに、大串らの属する源氏側はもちろん、敵(ここでは平家軍ではなく義仲軍)も思わず爆笑してしまったのでしょう。
残念ながら、この爆笑は一瞬にすぎず、戦争を止める力にはまったくなりませんでした。が、貴重な例だとは思います。相手の共同体をあざ笑うのではなく、敵味方の共同体の境界を一瞬なりともぼやけさせるような笑い。
その「一瞬」をなんとか、持続可能な平和につなげる道を見つけたい、と私は考えております。