政治哲学者のシャンタル・ムフというお人は、カール・シュミットの友・敵理論に強い影響を受けつつも、それを乗り越え、敵を対抗者に変えていく、「闘技民主主義」という論を展開なさっています。私はムフの専門家ではありませんが、敵を敵でなくする術(すべ)には、平和主義者として強い関心を持っています。ムフの関心は主として国内民主主義にあり、世界平和についてはさして語っていないこと(一応、ブッシュJr大統領の独善的な戦争を批判してはいます)は承知の上で、もしもムフが『平家物語』という戦争文学を読んだら、という空想を進めてみます。
シュミットによれば友(味方)と敵は峻別されるべきものなのですが、『平家物語』には二回ほど、味方と敵の区別が消滅する瞬間が描かれています。
宇治川の合戦。大力の畠山重忠が、大串重親を向こう岸に放り投げて、名誉の先陣を果たさせてやった場面。
「敵(かたき)も御方(みかた)もこれを聞いて一度にどつとぞ笑ひける」(一二二頁)
またこれも高名な、那須与一が扇の的を射落とした場面。
「沖には平家舷(ふなばた)を叩いて感じたり。
陸には源氏箙(えびら)を叩いて、どよめきけり」(二六四~二六五頁)
・・・・・・そんな「瞬間」がどうしたというのか、と問われるかも知れません。敵も味方も感動させた場面はほんとに一瞬にすぎず、その直後には戦争は再開されています。
源氏と平家の闘技民主主義なんて、成立するはずがないじゃないか。その通りですが、こういう場面をムフならどう読むか。そこに興味をひかれるのです。
壇浦合戦での平知盛のセリフに「好き敵(よきかたき)」という言葉があります。なんらかの価値観を共有できる、一瞬なりとも感動を共にできる「好敵」という概念は注目に値します。
「好敵手」とまで言ってしまうと、シュミット的な厳格な含みが失われる恐れもありますが。
ムフの「敵を対抗者に」という主張は、シュミットを誤読してるとの批判もとかく多いのですが、間に「好敵」を入れて、「敵→好敵→対抗者」にしていく方法が見つかれば、まんざらでもなくなりそうな気がします。