核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大賀哲「「テロとの戦争」と政治的なるものの政治学―シャンタル・ムフの国際政治思想への展開」 その4

 ムフは普遍(universe)に対して多遍(pluriverse)を提示し、その方向からブッシュJrの「テロとの戦争」を批判します。
 「文明/テロ」というブッシュJrの二分法は、一見シュミットの「友/敵」に似ているように見えて、そうではないとムフは論じます。相手を「悪」「人類の敵」と名指してしまっては、ムフの持論である対抗者との闘技的関係は不可能になると。このあたりはシュミットの正確な読解というより、ムフの主観が大きく出ているようです。
 じゃあ、ムフはテロにどういう態度をとっているのか。このあたりがあいまいでして。大賀論は口ごもるムフの代わりに、デリダの「暴力は事実上、消去不可能」で始まる論を引用していますが、どうもムフの真意に沿っているのかどうか疑問です。
 で、大賀氏からムフへの三つの疑問。
 1、いかにして他者を対抗者としてとらえ得るのか?
 2、ムフの論にも形を変えた排除がないだろうか?
 3、国内政治理論を無配慮に国際政治理論に拡大してしまっていいものか?
 それらに対しての、ムフの(可能性としての)応答は。
 1、「他者を対抗者として捉える為の具体的な処方箋については不明瞭」(二二七ページ)
 2、「ムフの議論からは(引用者注 排除の)最小化の必要性は導き出せてもその処方箋は見えてこない」(同)
 3、「国際政治学における知見との往復運動を通じて克服されるべき問題である」(二二九ページ)
 ……課題ばっかだなとか言わないでください。大賀氏もデリダを援用して、少しでもムフの目指すところを具体化しようとしています。
 大賀氏と疑問を共有する私としては、デリダよりムフ自身の考えをもっと聞きたいものです。せっかく同じ時代を生き、同じお正月を迎えようとしているんだし。もちろん、私自身も三つの問いについて自分なりに考えていきます。