核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

デモクリトス断片(柄谷行人「哲学の起源」より孫びき)

 「イオニア自然哲学の最終的到達点と目される」デモクリトス。まとまった書物の形では残っておらず、断片が知られるのみだそうです。柄谷行人の引用をさらにダイジェストしてお送りします。

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 (断片41)恐怖の念からではなく、義務の思いから、人は罪を犯すことを避けるべきだ。
 (断片251)民主制のもとでの貧困は、君主制のもとで幸福と呼ばれているものよりも価値あるものとされるべきである。それはちょうど、自由が奴隷状態よりも価値あるものとされるのと同じなのだ。
 (廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』、講談社学術文庫p319-51抜粋 ここでの引用は柄谷行人「哲学の起源」第二回 『新潮』 2011年8月号による)
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 ラッセルを紹介した時にも書きましたが、「倫理は恐怖によるものであってはならない」という原則に私は賛同します。
 賛同できないのは、「ここに、アテネの哲学者にないような倫理性を見出すことは難しくはない」という柄谷の意見です。プラトンの『国家』全十巻が論じているのは、まさにデモクリトス断片41の問題、「もし罰を受ける恐怖から完全に解放されたら、それでも人間は善でいられるか」という問題なのです。
 途中から個人ではなく国家の善に話題を変えたために、答えまでが不完全になってしまった感はありますけど、それでもデモクリトスがそれ以上の答えを持っていたとは思えません。
 「自然哲学」と一括されがちなイオニア学派の倫理性を再評価したい気はわかるのですが、そのためにアテネ(アテーナイ。ここでは柄谷にならってアテネと表記します)を実際以上におとしめる必要があるのでしょうか。私は別にアテネびいきで言っているのではなく、その悪い面(これだけプラトンアリストパネスを読んでいれば、いやでも気づきます)も理解した上で、今後の人類の民主と平和のために役立てたいと思っているのです。
 なお、私の絶対平和主義は「恐怖の念」によるものではありません。核戦争はたしかに怖いけど、自分だけが助かりたいと思っているわけではないのです。「義務の思い」といえるかどうかも微妙でして。強いて言えば、「痛ましさ」と、それに付随するメランコリーが、私の平和論を縁の下で支えているわけです。ものすごく個人的な上に面白くない話がからんでくるので、その裏事情はブログにはたぶん書かないことにします。