核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

アラン「兵士としての隷従」(『プロポ Ⅰ』より)

 そもそも、平和主義者でもあり、第一次大戦時には四十代なかばの高齢でもあったアランがなぜ兵士となったのか。戦後(1921年3月27日)にはこう書いています。
 
   ※
 戦争の三年間、民間人としての隷従よりも兵士としての隷従を選ぶようにわたしに決意させたのは、好奇心を別にすれば、愚者どもがふたたび幅をきかせるだろうという、わたしが当初からいだいた思いだった。(略)
 体制的な考え方が警察によって規制され監視されるようになると、その体制的な考え方は、平均的警官の水準にまで落ちざるを得なかった。(略)
 戦争の遂行がこのようなとりわけ非人間的な結果をもたらすということは、けっして意外とされるべきではない。精神の奴隷より肉体の奴隷のほうがましだと考えて、わたしは軍隊に逃げ込んだのだ。
 この決断は正しかったし、わたしは一度もそれを後悔したことはない。
 (125~126ページ)
   ※
 
 戦時下につきものの思想統制が耐え難かったのでしょう。私自身は戦争体験こそありませんが、商売柄、戦時下(日清・日露から太平洋戦争まで)の新聞雑誌を見る機会が多々ありまして、アランの言う「愚者たちの支配」というものは理解できるつもりです(現時点(2013年4月上旬)での私は、当分はそういうのは見たくもないほど嫌でして、だから、こうして冷却期間を続けているわけです)。
 ただ、だからといって、「軍隊に逃げ込む」ことで、そうした戦争賛美者の偽善から手を切れた気になるのはどうかと思います。アランは砲兵だったそうですが、彼の砲撃で死傷したドイツ兵にすれば、アランの選択こそ偽善だということになるでしょう。
 どうも良心的な平和主義者ほど、自分だけ安全な場所にいるのは耐えられない、といった気分に陥ることが多いようです。カール・ポパーシモーヌ・ヴェイユの例を見ても(いずれ紹介します)。