核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

アランの戦争体験

 おなじみ『プロポ Ⅰ』より。第一次世界大戦に従軍し、敵兵を発見したアランの体験を紹介します。
 
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 人殺しの訓練をしていた一九一五年夏のある午後のことをおぼえている。わたしは望遠鏡で、鍋をもってやってくる敵軍の炊事係かスープ運搬係の動きを追っていた。大砲はそれに目標を定め、準備を整えていた。あとは電話器に一言伝えればそれでよかった。そうすれば、男が小さな茂みのそばを通った瞬間に砲弾が発射されるように計算ができていた。まさにその瞬間、命令は発せられ、ほとんど同時に、わたしは発射音と空気を引き裂く砲弾の音を聞いた。
 (「自責の念」一九二二年三月二十五日 259ページ) 
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 結局、この砲弾ははずれたわけですが、アランはこの件について、誤差については反省しても、殺人行為への反省や同情は感じなかったと回想しています。
 
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 傍観者である場合、どんな人間でも感じやすい。行動する場合は、どんな人間でもそうではない。(略)常軌を逸したかの戦争犯罪が、それを犯した者たちの本性についてなにごとも明らかにしないのはこのためだ。日常生活において冷たい心であろうと、怒りっぽい心であろうと、感じやすい心であろうと、行動に駆り立てられるやいないや、おなじことになる。
 (同 261ページ)
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 体験に基づく貴重な言葉だとは思うのですが、そもそもアランのような平和主義者が志願兵になったこと自体間違っているのではないでしょうか。ソクラテスデカルト、アランといった古今の哲人がどうであろうと、私は兵士になるぐらいなら強制収容所に送られる方を選びます。そっちのほうが安全だってこともないだろうし。