核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

堺利彦「天津通信」(『堺利彦全集 第一巻』法律文化社 1971 40~62ページ より)

 村井弦斎の『日の出島 曙の巻』連載と同時期に、『萬朝報』記者の堺利彦は従軍記事を連載していました。北清事変(義和団事件)についての資料として、要約して書き写しておきます。
 
   その一(1900(明治33)年7月18日掲載)
 1900(明治33)年7月4日 堺、水雷艇陽炎(かげろう)にて太沽(タークー)に上陸。
               同5日 歩・工・砲・騎兵各一個中隊に従って天津に進む。
                    塘沽(タンクー)に到着。現地人の死体を目撃。
                    停車場は露兵の占領下。
                    水の欠乏。兵士とともに畑に入ってきゅうりをかじる。
               同6日 天津に入る。この記事を書く。
   その二(7月19日掲載)
 7月6日 天津城の戦闘。砲弾が頭上を飛び、砲兵隊の馬がたおれるのを見る。
   その三(7月19日掲載)
 7月6日 英軍陣営にて列国の会議。日本の提議により市街へ砲撃。
  同7日 英軍の発意によりふたたび砲撃。日本騎兵が敵と遭遇、負傷者が出る。
   その四(7月19日~20日掲載)
 7月9日 英軍の提議により西方に前進。日本兵が前衛となる。
        日本兵 歩兵四中隊と二小隊、砲兵一大隊(山砲一二門)
        英兵   九〇〇人、山砲四門、マキシム砲四門
        米兵   一〇〇人
        敵兵の抵抗により武久大尉ら三人戦死。夕方、戦死者の葬式。領事館砲撃される
   その五(7月21~24日掲載)
 7月11日 停車場の戦闘。苦戦。日本軍の死傷七九名。
 7月13日 日英仏米連合軍による総攻撃。大苦戦。服部少佐ら戦死。
 7月14日 天津城陥落。「敵城に進入してほとんど秋毫も犯すところなく」「文明の連合軍なり」
   戦後の光景(7月25日掲載 この一節のみ言文一致体)
 天津城に日の丸が揚がるのを見て愉快と叫ぶ。両軍兵士や子供や老婆の死骸を見る。城外に避難する婦女を見て「戦争の災いを心に感じた」。
 
 …日露戦争期には非戦論者となる堺利彦ですが、この時期にはまた揺れているようです。文明の戦という大義名分と、実際に目にした戦場との間で。