核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

森本隆子『〈崇高〉と〈帝国〉の明治 夏目漱石論の射程』(ひつじ書房 2013)

 この森本先生という方は、静岡大学および同大学院での私の恩師にあたるわけですが、だからといってお義理で取り上げたわけではありません。「第二部 異性愛と植民地―もう一つの漱石」中の「第八章 米と食卓の日本近代文学誌」は本書中の白眉であり、私がとっくに読んでおくべき論文でした。初出は『米と日本人』静岡新聞社 1997所収とのことです。
 
 1 近代家族は〈ごはん〉とともに誕生する
 2 〈米〉の粘着力は国家を作る
 3 〈米〉の神話を乗り越えるために
 
 との章立てで、漱石のみならず堺利彦の家庭論、宮沢賢治の童話から『サザエさん』に至るまで、日本人の中で「〈米〉の神話」が形成されていった過程を追った論文です。
 米の神話というのもけっこう危険でして、森鷗外をはじめとする陸軍軍医上層部が白米食にこだわり続けた結果、「日露戦争では戦傷病死者、約八万五六〇〇人のうち、脚気による戦死者は、およそ二万七八〇〇人を数える」(153ページ)に至りました。
 村井弦斎については同書では触れられていませんが、玄米の脚気への効用を語った『食道楽』でさえも、「西洋人は日本人の事を三千年来お米を食べながら米の食べ方を知らないと悪くいうそうですが」「お米の本家たる日本人が恥かしい訳でありませんか」(いずれも257ページ)とあり、米の神話(米フェチ?)と無縁ではありませんでした。
 今すぐTPPの是非といった現実問題に結びつける力は私にはありませんが、少なくとも、米の神話を歴史的事実と照らし合わせて脱神話化する作業は必要だと思うのです。果たして大多数の日本人にとって、米が本当に日本古来の主食であったかどうか。