核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

綾目広治「〈近代化〉言説の再考」(『日本文学』二〇一八年一一月号)

 特集・「近代化」言説の光と影のあわい、巻頭論文。
 問題意識は共有していることを確認した上で、感想めいたことを書かせていただきます。
 決して、自分の論文がボツになったひがみとか、そういうのではありません。
 
 鷗外の「舞姫」、田山花袋の『田舎教師』、漱石の『こゝろ』を例にとり、それらの主人公たちの自我が明治国家に支えられたものであり、独立自存の近代的自我と呼べるものではないという前提。
 (ここまでは大いに同意します)
 そして、主人公たちにそういう姿勢をとらせて怪しまない作者たちの自我もまた、明治国家の支えなしには存立しえない、非近代的な自我であったという展開。
 (これにも同意します)
 
   ※
 このように見てくると、独立自存の近代的自我というのは、戦後の知識人たちが見た夢想であったと言えそうであり、また、日本の近代小説を読むときには、近代的自我観で作中の人物を裁断するべきではないことも、明らかになったと思われる。(八ページ)
   ※

 ここから先の論旨には賛同できません。鷗外・花袋・漱石がすぐれた小説家であったことは認めますが、彼らが近代的自我の最高峰であったとは思いません。「周囲や社会、さらには国家に歯向かうことさえあるような近代的自我」を持ち、天皇制の問題点にさえ批判を放った明治の小説家を、私は少なくとも三人は知っています。矢野龍渓福地桜痴・木下尚江が前三者より偉大な小説家であるとは主張しませんし、そうした自我を確立するに至る過程を描き切れていないうらみはありますが、独立自存の近代的自我を持った文学者というのは、戦後知識人の夢想などではないのです。大正期も含めるならば、軍国主義から軍国批判に転じた村井弦斎も含まれるかも知れません。
 「裁断」がよくないことは同意します。鷗外や花袋や漱石が無価値だというつもりはありません。
 要は、鷗外や花袋や漱石を、人格形成上の規範のような存在に仕立てあげてはいけないと言いたいのです。技法としての近代文学の完成と、人格上の近代的自我の確立はイコールではないのです。
 近代的自我を探すのであれば、むしろ前・近代文学や非・近代文学から探そうと、私は考えています。漱石作品から一つ挙げるとすれば、「こゝろ」ではなく「坑夫」の主人公に、ゼロに近い状態から近代的自我を確立していく過程が描かれていると、私は思います。