後藤又兵衛と真田幸村の反戦論。あるいは殉死平和主義。さすがは村井弦斎です。想像の斜め上を行ってくれました。いつもこうならいいのですが。
薩摩藩日の出山の奥御殿で、打倒徳川の妄執を抱いたまま、ひっそりと病死した豊臣秀頼(もちろん、ここから先は架空の設定です)。残された豊臣家臣団は、乱心した秀頼の遺言通り、島津家の力を借りて兵乱を起こそうとします。
それを止めたのが、長老格の後藤又兵衛と真田幸村。殿下御存命の時ならともかく、その死後では、生活に困った浪人どもの盗賊沙汰と思われ、かえって豊臣家の名を汚す。「無謀の戦」は止め、秀頼公に殉死して晩節を全うしよう・・・じゅんじゅんと説かれた豪傑一同はその気になり、死出の支度をはじめます(164/177)。かくて第二次関ヶ原の合戦は阻止されました。
その床下には、立場は違えど天下の太平を願う、徳川方の間者市之丞が。自分たちの志を将軍家光に伝えさせるために、幸村はあえて市之丞の存在に気づきつつも見逃すのでした。
殉死というのも、常に野蛮な風習とは限らないのかもしれません。少なくとも自爆テロよりは。