核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

三浦俊彦「デリダのパラドクス」(『論理サバイバル』二見書房 二〇〇三)より

 同書一二七~一二八ページ。「真面目と不真面目の区別などは存在しない、あるのは差異の戯れのみ」と語ってきたデリダが、自分への批判に対してだけは「真面目に」相手の「不誠実」を慨嘆している、というパラドクスを扱ったものです。
 三浦氏はそれへの答えとして、「デリダ脱構築主義を「学術的主張」と受け取るかぎり、デリダの主張は単に不誠実となり、弁護の余地はない。むしろデリダのテクストは、思想の伝達ではなく、発言行為によって世界に何がしかの刺激を与えようとする戯れの装置なのだ」とデリダを擁護しています。残念ながら賛同できません。
 真面目な議論の場に割り込んできて、大声で発声練習や口真似をしたあげく、叱られると逆切れする子供。デリダや彼の追従者がやっている脱構築とはまさにそれです。そういうのは批判でも「戯れ」でもなく悪ふざけです。単に不誠実です。
 デリダのテクストは学術的主張ではないと三浦氏は言いますが、彼は大学教授や名誉博士の肩書を持つ(ウィキペディアより。反対も多かったそうです)教育者・権力者です。上述の子供を相手にするのとは違い、厳正に学術的主張として評価・批判されるべきです。
 デリダの文章にはある種の「刺激」があることは否定しません。しかしそれは「来たるべき○○」についての思わせぶりな戯れに過ぎず、具体的に何なんですかという問いには、はぐらかしてばかりで決して答えられない。古人の口真似と悪ふざけしかできない子供の限界というべきでしょう。大人が真面目に相手にするべきものではありません。
 もう私はデリダを読む必要はないと見切りをつけましたが、サールやE・O・ウィルソンのデリダ批判は一応読んでおこうと思います(優先順位は低め)。