民主国家が君主国家に比べて、戦争に少しだけ縁遠いのは、戦争を引き起こすタイプの指導者を解任できる可能性が存在するからです。
ここでいう、戦争を引き起こすタイプの指導者とは、死を恐れず危険を喜ぶ勇猛果敢なタイプ……というわけではありません。古代のアレクサンドロス大王とかは知らず、二十世紀の戦争指導者たちは、徴兵忌避者あがりだったり、伝記で個人的な履歴を見ると臆病な性格だったりすることが多いのです。「すめらみことは戦いに おおみずからは出まさね」と二十世紀初頭に書いた与謝野晶子は、その時点では確かに本質を突いていました。
文学界でいえば、小林秀雄という批評家は、戦時中に以下のような発言をしていました。一兵卒として銃をとる(戦前にはそう宣言していたのですが)こともなく、最前線を取材することさえ避けて。
「戦場は楽土である。兵士等は仏である」
「要は我々はこの提携は戦争と深く結付くべきであるといふことを茲に覚悟しなければならぬと思ふのであります我々は必勝の信念を固めて居ります。勝つことに於て英米が勝算がある筈がない。英米が撃滅された暁に於ても我々の総和は続くといふ覚悟が必要だと思ひます」
そして、これらの時局便乗発言をすべて小林秀雄は己の全集から削除・隠蔽し、まるで戦争への抵抗者であったかのようなポーズをとりました。二〇二〇年代になっても、その全集が作り出した抵抗者という虚像を信じた、「小林秀雄の警告」だの「小林秀雄の政治学」だのという本が出るありさまです。
まず、戦争を引き起こすタイプの指導者の実像を明らかにすること。それが平和への第一歩と私は考えます。
小林秀雄なんかより、もっと大物がいるんじゃないか、というご意見もあるかも知れません。私の研究は明治大正期から昭和期に移行しつつあり、いずれは着手したいと考えております。