核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

偶然とは、ある程度まで多元的決定なのでは

 2019年1月28日の記事で、私はこう書きました。

 

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 偶然というやつは、ある程度までは多元的決定なのではと、私は思っています。
 たとえば東京で別れたAとBが、大阪でばったり出会う。JPOPなら「神様がくれた奇跡」とか歌うところですが、実はそれはAが乗った列車Cが五分遅れ、Bの上司Dが1時間残業を命じた結果にすぎないかもしれない。さらに列車Cが遅れたのは乗客Eがかけこみ乗車をしたせいで、Dが残業を命じたのは社長Fの無茶ぶりのせいで……といった具合に、微視的には偶然と見えるものが、巨視的には多数者の必然の連鎖であるかもしれないというふうに。
 あくまでも「そういうこともある」と考える程度で、私は決定論者ではありません。

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 何が言いたいのかというと。

 自分に都合のいい偶然が起きたのを見て「奇跡だ」とか「神様のおかげだ」と考えるのは、一見敬虔に見えて、ものすごく自己中心的な考えなのではないかと。まず、自分とは無関係にまじめに(あるいはふまじめに)働いている、人間さんたちのことを考慮することこそ、真に道徳的な配慮だと、不信心な私は思うのです。