核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

ミーゼス『経済科学の根底』における平和観

 最近気になってしかたがない、新自由主義の祖ともいわれる、経済学者ミーゼス。彼は経済以外の問題、たとえば平和と戦争といった問題についてはどう考えていたのでしょうか。

 ミーゼスの著書『ヒューマン・アクション』や、『経済科学の根底』はネット上では読めなかったのですが、越後和典氏のご論文「新オーストリア学派の国家論」(『彦根論叢』二〇〇七(平成一九)年十一月)に、ミーゼス『経済科学の根底』の紹介がありました。以下に越後論を引用します。

 

   ※

 国家論におけるミーゼスの立場は以下の通りである。
繁栄と文明の前提条件である分業の下での平和的協業(自由な市場経済
は,強制と強圧の社会裝置としての政府を必要とする。もし政府が存在しなけ
れば,暴力・強盗・殺人などの諸悪は防止できない5)。
諸悪の根源は人間の心と性格の弱さ,すなわち人間の不完全性にあり,こ
れに有効に対処できるのは,政府のみである。この意味で政府は,平和的な社
会的協業システムとしての自由な市場経済の維持に,必要かつ有益な制度であ
るといってよい6)。換言すれば,政府の合法的暴力は,目的達成のために必要
な手段,目的達成のために拂うべき費用であるといえる。
次に国家に許される強制と強圧の範囲と程度はどうか。国家と政府は目的
でなく手段であるから,強制と強圧が適用される領域と,警察機構によって強
行される法律の内容は,選ばれた社会秩序によって規定される。したがってこ
の問題への解答は,選ばれた社会秩序を効果的に擁護できるか否かが唯一の評
価規準となる。ここに選ばれた社会秩序とは,自由社会のそれであり,その基
4)L. v.ミーゼス著,村田稔雄訳『経済科学の根底』日本経済評論社2002年,121~122ペー
ジ参照。
5)同上120~121ページ参照。
6)同上。
オーストリア学派の国家論 99
礎は自由な市場経済制度であるから,「政府はその(強制と強圧)範囲を,い
わゆる経済的自由の保持に必要な限度にとどめる場合にのみ,自由の保証者で
あり,自由と両立する」といえる7)。
また政府に不可欠の任務は,国内のギャングのみならず,外敵からも社会シ
ステムを防衞することであるから,他国を侵略し奴隷化しようとする者たちが
多数存在している世界にあっては,徴兵や課税は自由の制限ではない。完全な
無条件平和主義者は,侵略者に無条件降伏するに等しい。

 (九八~九九頁 注は一部省略しました)

   ※

 

 意外とまともに、戦争の弊害を否定していました。ミーゼスは国民国家そのものを否定する無政府主義者ではありませんでした。しかし、

 

 「政府の合法的暴力は,目的達成のために必要な手段,目的達成のために拂うべき費用である」

 「徴兵や課税は自由の制限ではない。完全な無条件平和主義者は、侵略者に無条件降伏するに等しい」

 

 といったあたりは、どうでしょうか?ミーゼスの穏健さ、妥当さを認めた上で、私はそれに異議ありなのです。「政府の合法的暴力」「徴兵」をこういうふうに擁護してしまっていいものかと。私は国民国家否定論者でもなく、「白旗赤旗論者」(侵略者への無抵抗主義者)でもないことを再確認した上で。つまり私は分の悪い二正面作戦を強いられていることを、承知した上で。

 越後論の後半で紹介されている、ロスバードという人のミーゼス批判を借りることにします。ロスバードは正当防衛は認める無政府主義者リバタリアンなのですが、戦争は、それが自衛戦争であっても正当防衛にはあたらないとして批判しています。

 弓矢やライフル銃が武器の時代には、犯罪者(侵略してきた敵兵)だけを狙い撃つことが可能だったが、核兵器以降の時代では民間人を巻き込まない戦争など不可能であり、戦争は正当性を有しないと、ロスバードは主張します。

 弓矢やライフル銃の時代だって、民間人を巻き込まない戦争などなかったと考える私には、ロスバードの意見にもそのまま乗っかるわけにはいかないのですが、とりあえず留保つきでロスバードの方向性に同意します。戦争は(たとえ自衛戦争であっても)、侵略で最も得をする元首には傷一つ負わせられず、意志に反して徴兵された末端兵士や民間人をより多く殺傷するが故に、常に罪悪であると。那須与一といえども平家の総大将「だけ」を射貫いて戦争を終わらせることはできないし、ゴルゴ13ほどのスナイパーが実在しても、ライフル銃だけで戦争を終わらせるのは不可能でしょう。私が核兵器および「通常兵器」によるすべての戦争に反対し、兵器によらない「闘技」を模索しているゆえんです。