核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

村井弦斎『水の月』論構想 差別と渡り合うテクニック(ネタバレ注意!)

 『水の月』を発見した当初は、「これで作品論は難しいな」と思っていたのですが。

 谷崎潤一郎小さな王国』論に軸足を移してみると、なにやら書けそうな気がしてきました。

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 『水の月』(一八八九)の女主人公は、島崎藤村『破戒』(一九〇五)や、伊藤野枝「火つけ彦七」(一九二二)の男性主人公と同様に、世間から差別されて育ってきました。

 『破戒』の丑松は土下座して、自分は「不浄な人間です」と自虐的に告白してしまい、彦七は放火魔になることで、世間に復讐を果たそうとしたわけですが、『水の月』の女性主人公の生き方はそのどちらとも違います。「改良手品」、大がかりなマジックを極めることで、世間の人々を幻惑し、差別どころか畏敬の念で見られる存在になったのです。

 そんな彼女(ごたぶんにもれず、すごい美人という設定です)に求愛する、改良手品師志望者の男性主人公も現れるわけですが、彼女は劣等感からそれに応えられず、北海道を舞台に追っかけっこと手品合戦が始まります。男性主人公の旧式な父親も結婚に反対し、横恋慕から女性主人公に嫉妬する悪役令嬢も現れ、前途は多難と思われたのですが、男性主人公は思いを貫きます。

 すると(ありそうにない)偶然から、女性主人公は被差別者に育てられたものの、実は旗本(上級武士)の出身であることが明らかになり、がんこな父親も二人の結婚を許します。果たして悪役令嬢は彼女に合った相手を見つけられるでしょうか、といったところで幕。

 

 私が不満だったのはこの結末部分です。「実は被差別者じゃなかった。めでたしめでたし」では、主人公二人はよくても、差別という問題そのものの根本的な解決にはつながらないんじゃないかと。手品のタネを明かされたような、しらけた気分になったものです。

 とはいえ前半に限れば、『破戒』や「火つけ彦七」よりは、はるかにすぐれた反差別小説であると、私は思います。差別を受け入れるのでも暴力で復讐するのでもない、いわば差別を無化するテクニックが描かれているように読めるのです。