核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

美人小説論

 夏目漱石「変化」に、以下の一節があります。

 

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 貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。然しその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。

 夏目漱石「変化」(『文鳥夢十夜』より『永日小品』の一編 新潮文庫 一一九頁)

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 後に満鉄総裁となる中村是公も、後の小説家夏目漱石も貧乏な学生で、本物の美人を見ても声もかけられなかった青春時代の回想。なのですが、ここに論ずべき問題を私は見いだしまして。

 文学にかぶれていない、素朴な男性読者にとって、小説に美人が出て来るかどうかというのはけっこう重要な問題だと思うのです。最低1名、多ければもっとの美人をめぐって、男性登場人物がほれたはれたの騒ぎを起こし、読者もそうした男性登場人物に感情移入して疑似恋愛を体験するというのは、小説読書体験の基本といっていいでしょう。吉屋信子にみられるように、主人公も読者も男性でなくてもいいわけですが。

 笙野頼子『説教師カニバットと百人の危ない美女』なんて小説もありますが、百人は多すぎるようです。私はその小説をいまだ読んでいませんが、美人が多すぎると、その素朴な欲望は発動できないのでしょう。

 で、たいていの小説家(やアニメ・ゲーム製作者)は出て来る美人を、タイプのちがう数名にとどめ、主人公が誰を選ぶかとかで読者をやきもきさせるわけです。さかのぼれば『源氏物語』にまで行けそうな小説作法。最初に考えた人は偉大です。

 私はフェミニストではないので、「小説に美人を出すのは女性の商品化だ!」なんてことは言いません。ただ、小説に美人を求める読者側の欲望、それに応えてとりあえず美人出しとけな作者側の営業戦略といったものに、自覚的であるべきだと、文学研究者としては思うのです。

 なんでこんなことを考えたかというと、渡部直己塩見鮮一郎の両氏がすでに指摘しているように、差別を受ける側の女性は、小説ではたいてい美人として描かれるというパターンがあるようなのです。伊藤野枝「火つけ彦七」は稚拙といわれていますが、上記のパターンは免れています。つまらない取り柄かもしれませんが、もしかしたら論の切り口になるかもです。