まず、先頃物議をかもした、ジャーナリストの櫻井よしこ氏のX(旧ツイッタ-)を引用します。
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「あなたは祖国のために戦えますか」。多くの若者がNOと答えるのが日本です。安全保障を教えてこなかったからです。元空将の織田邦男教授は麗澤大学で安全保障を教えています。100分の授業を14回、学生たちは見事に変わりました。
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安全保障というもの、軍事力によって表面上の平和を維持することの本質について、日本のこれまでの教育者側が「まともに」教えてこなかったことは事実です。私も名古屋大学大学院まで行きながら、先生から安全保障について教わった記憶はありません(自慢ではなく、恥じているのです)。「安全保障のジレンマ」を知ったのさえ、博士の学位を得た後でした。
軍備による安全保障とは、誰の安全を守るものでしょうか。軍人さんや自衛隊員さんなど、戦わされる若者の安全ではないことは、すぐにわかるでしょう。民間人の安全を守るものでもないことは、沖縄戦をはじめとする太平洋戦争での悲劇の数々を見ればわかるでしょう。そう、安全保障とは、政治家や戦争扇動者たち「だけ」の安全を守る営為なのです。
小林秀雄という戦前戦中の指導的批評家は、戦前からナポレオンを英雄、ヒットラーを天才と讃え、米国と戦争をしても大丈夫さと、安全な文壇で扇動していました。さらに、その時が来たら自分は一兵卒として銃をとると発言していながら、いざ開戦となってもそんなそぶりもみせず、「大戦争がちょうどいい時に起こってくれた」「英米に勝算がある筈がない」と大言していました。
そして敗戦の日となってもやっぱり一兵卒として銃をとるわけでもなく、鎌倉で酔っ払っているところを高見順に目撃され、日記に書かれています。そして戦後は座談会記事に「反省なぞしない」と言ってもいないセリフを書き足し、戦前戦中の戦争扇動発言をすべて改竄隠蔽した『小林秀雄全集』を出版しました。そんな全集を真に受けた戦後の自称知識人たちは、「小林秀雄はなぜ戦争に対して沈黙したのだろう」「戦争を語らなかったのは、一種の抵抗に違いない」などと感心するありさまです。
まさに、個人レベルでの安全保障を貫いた生涯だといえるでしょう。これはアイロニーなどではなく、安全保障というのは道徳的にはそのレベルの、他人を犠牲にすることでわが身を安全にする営為にすぎないのです。
ほんとうの平和主義、絶対平和主義というものは、安全保障とは違います。軍備拡張に軍備拡張で応じることが「安全保障のジレンマ」を起こしてしまうことを理解し、非軍備的営為によって恒久的な平和を実現しようとする試みです。「たとえ祖国のためであろうと、決して軍事力によっては戦わない」という覚悟です。
どうか若い方々は、「祖国のため」「安全保障」などという美名にだまされないでほしいものです。