核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

なぜ私は反戦詩ではなく、反戦小説を研究対象とするのか

 挑発的かな。詩が好きな方も、ど~か怒らないでください。詩そのものを否定するつもりはなく、反戦詩という一ジャンルに疑問を呈しているだけです。

 たとえばロシアのウクライナ侵略戦争について、反戦の意を表明したいと思った文学者がいたとします。そして反戦詩を書いたとします。

 

 「ロシアよ 侵略をやめよ 戦争を止めよ」

 

 といった内容を、もっとリズミカルな、美しい詩として長めに書いたとします。

 それでプーチン(ロシア大統領)は、「うむ。わかった、戦争をやめよう」と納得するでしょうか?どうもそうは思えません。第一、日本語の詩など読めないし読まないでしょう。せっかくの詩も、言いっぱなし投げっぱなしで、対象に届かなければ戦争は止まらないのです。

 反戦小説だって同じではないか、と言われるかも知れません。しかし、前回書いたように、小説はふつう2人以上の登場人物からなるものです。

 

 主人公「ロシアよ、侵略をやめよ、戦争を止めよ」

 作中のプーチン「そうは言うがな、わが国にも立場があって」

 

 といった具合に、対話が発生する可能性があるわけです。もちろん作中のプーチンは作者が考えたプーチンであって実物ではなく、たとえれば壁打ちテニスに類するもので、現実はすぐには変わらないでしょう。しかし小説は詩と違い、その内部に「壁」が存在する。ここが重要です。作者が孤独な壁テニスを重ねているうちに、読者も作中の対話に乗ってきて、どちらかの立場に感情移入してくれるかもしれない。それは作品外で議論を引き起こし、現実に干渉するかも知れないのです。

 「かも知れない」だけではありません。日露戦争期に木下尚江(きのした なおえ)が新聞連載した反戦小説『火の柱』や『良人の自白』は、作中に反戦論者のみならず戦争賛成論者をも登場させ、両者に対話をさせることで、作品外での議論をも盛り上げ、現実に戦争賛成論者から反戦論者に転ずる者も現れました(大塚甲山など)。

 まとめると、他者(戦争賛成論者)との対話の要素があるかどうかに、私は反戦詩と反戦小説の違いを見、対話の要素がある反戦小説のほうに、より大きな望みをかけています。対話形式の詩も存在することは存じていますが、問題は形式よりも、実質的な対話要素があるかどうかです。先頃読んだ『反核詩集』には、そうした対話要素は見いだせませんでした。