核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

大江健三郎論まとめ―私は平和を「祈ら」ない

 前回前々回に大江健三郎の思想をメシアニズムと呼びましたが、むしろデリダのいう「メシア的なもの」のほうがふさわしいかもしれません。歴代ギー兄さんや師匠は、オウム真理教の教祖のように自らキリストと称しているのではなく、自分は前キリストの一人、いやもしかしたら反キリストの一人であるかもしれないという疑いを常に抱いておりますので。ただ、どちらであるにせよ、私はそれに反対します。
 急病人を眼の前にして、自分なりに手当てするでも助けを呼ぶでもなく、ひたすら神に祈り続けるだけの人間を、倫理的と呼べるでしょうか?中世の医学が進歩しなかったのは、まさに「祈り」の効果に過剰な期待を抱きすぎたからなのです。
 『燃えあがる緑の木』第三部で、ギー兄さん(三代目)が祈ったら原子力発電所が停止した、というエピソードを読んだとき、私は暗~い気分になったものです。小説の中で魔法使いや奇蹟を描くのは自由ですが(むしろ、私は私小説よりファンタジーのほうが好きな方です。明治文学研究者としてどうかと思いますが)、この作品のような扱い方はご都合主義であり、不毛です。百歩ゆずって祈りで原発が止まるものとしても、その分のエネルギー供給をどう補うなり節約するなりするのかを提案しなければ、根本的な解決策にはなりません。
 私は人間の精神の力を信じていますが、それは神を信じるという意味の信ではなく、他の人間に言葉で働きかけ動かす力があることを信じるという意味です。
 大江作品の登場人物で私が評価するのは、一生かけて障害のある子供を育てることを選んだ『個人的な体験』の鳥(と書いてバードと読む)と、方舟に乗れなかった人々のための文明を提案し実行した『治療塔』の繁伯父さんの二人です。前者と同じ生き方を現実に選び取り実行した力を持つ大江健三郎が、なぜ原発問題や平和論については実効性のない感情論におちいってしまうのか。残念です。
 大江健三郎批判はここまでにして、あとは私自身の平和論と文明論を成熟させていく方向にエネルギーを注ぎたいと思います。
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