最近ちょっとだけひまができたので、今まで放置してた古典をあれこれ読んでみてるアンタルです。
そんな中気になったのがこの論文。俳句にはつきものの「季語」の成立を論じています。
※
去来の『旅寝論』(元禄十二序)に伝える次のエピソードも、同じ題詠の問題として考えることができる。(略)
芭蕉の句(年々や猿にきせたるさるの面)に対して、去来が季語はどれを季語とすればいいか、と尋ねたところ、「年々」ではどうかと答えたという逸話である。去来は「「年々」は季の詞にあらず」と明言しているから、芭蕉にとっては苦しい言い訳であったことになる。(略)毎年毎年年が新しくなるが、猿回しが猿に面を被らせるのと同じで、中身は何も変わらないと言おうとして、思わず季語を詠み入れるのを失念したというのであろう。
季語を詠み込むことを前提にした方法からは、ありえない芭蕉の失敗例だったのだ。
※
・・・おもしろいなこの俳人。
季語を必ず入れるというルールは、果たして俳句文化の向上に貢献したか。私は懐疑派なのですが、門弟からの批判をすなおに認めたのはいいことです。