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近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

宮脇真彦「蕉風俳諧の季題と季語」(『日本文学』2011・10)

 最近ちょっとだけひまができたので、今まで放置してた古典をあれこれ読んでみてるアンタルです。
 そんな中気になったのがこの論文。俳句にはつきものの「季語」の成立を論じています。
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 去来の『旅寝論』(元禄十二序)に伝える次のエピソードも、同じ題詠の問題として考えることができる。(略)
 芭蕉の句(年々や猿にきせたるさるの面)に対して、去来が季語はどれを季語とすればいいか、と尋ねたところ、「年々」ではどうかと答えたという逸話である。去来は「「年々」は季の詞にあらず」と明言しているから、芭蕉にとっては苦しい言い訳であったことになる。(略)毎年毎年年が新しくなるが、猿回しが猿に面を被らせるのと同じで、中身は何も変わらないと言おうとして、思わず季語を詠み入れるのを失念したというのであろう。
 許六がこの句について「(略)仕損(しそんじ)の句也」(『俳諧問答』)という芭蕉の言を伝えているように、門弟たちからの指摘は芭蕉にとって誠に痛い所をつかれたことになる。(略)
 季語を詠み込むことを前提にした方法からは、ありえない芭蕉の失敗例だったのだ。
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 ・・・おもしろいなこの俳人
 季語を必ず入れるというルールは、果たして俳句文化の向上に貢献したか。私は懐疑派なのですが、門弟からの批判をすなおに認めたのはいいことです。