魯の宣公二年(紀元前608年)。鄭が宋に攻め込んだ時のこと。
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戦の最中に、宋の狂狡(きょうこう)が鄭の車に正面から撃ちかかったところ、鄭の人が井に踏み堕ちたので、狡が戟(げき)を逆さにして柄で引き揚げてやったのに、出て来た鄭の人はそのままその戟で狡を突き殺した。
君子は言う。
「戦の慣わしに背き、軍法を破ったからには、殺されたのももっともだ」
(145ページ)
※
…戦場の掟としてはその通りなんでしょうけど。
狂狡の心理が気になるところです。名前はアレだけどものすごくまともです。
鄭の人の心理も。芥川龍之介っぽい小説の材料になりそうです。
(2014・7・22追記 このあと、「宋襄の仁」について書くつもりだったのですが、いまさらという気もしてきたので、『春秋左氏伝』はひとまずお預けにします。続きは先行研究を読んでからです。ひとまず、戦争下の人道行為と、平和主義は別物だと私は考えています。前者が後者を生む可能性はありますが。)
(2014・8・1追記 本日、宋襄の仁について少しだけ書きました。ガザやウクライナのニュースもさることながら、ルカーチの発言がどうにも腹に据えかねまして)