襄公九年の火災以降の、向戌(しょうじゅつ)の事績をまとめてみました。けっこう平和主義者らしからぬ挿話も。
襄公十年 晋が偪陽(ふくよう)を伐って宋の向戌に与えようとした。
向戌はそれを辞退し、宋公に与えられることになった。
同十一年 宋の向戌が鄭を侵してたくさんにかすめた。(鄭側の挑発による)
同十五年 向戌が魯に来て盟いを温めた。孟献子の家がりっぱすぎるなと発言。
同十七年 左師(向戌)の家の後で華呉が殺される。
向戌は恐れて「この年寄り(わし)は何も悪いことはせぬぞ」と言う。
同二十六年 向戌、魯・晋・鄭・曹との会盟に加わり衛を伐つ。(会合におくれた)
向戌、恐れ嫌っていた太子の謀反疑惑を証言。太子は自殺する。
同二十七年 向戌、平和会議を開催。
昭公元年(紀元前541年) 向戌、宋の盟いを温める会合で、「大国は命じ、小国は従う。わたしは従うだけだ」と発言。「あっさりしていて礼を弁えている」と評価される。
同四年 楚王、会合の礼を向戌(と子産)にたずねさせる。向戌、「小国が習い覚えていて大国が用いてくださるとは有りがたい。喜んで、聞いておることを申し上げよう」
同六年 向戌、謀略で右師に就任した華亥(かがい)を叱責する。「お前はきっと身を滅ぼすだろう。お前は自分の本家をさえ滅ぼした。人のことなど何とも思いはしまい。人もまたお前のことなど何と思うものか」
同十九年 向戌の子、向寧(しょうねい)の発議により、宋が蟲を攻める。
同二十年 向寧、華亥らと相談して乱を起こす。後に子を人質に出して和解。
…昭公十九年ごろには向戌は没し、不肖の子向寧の代になっていたようです。
それにしても襄公二十六年から二十七年の間に何があったのでしょうか。