魯の僖公22(紀元前638)年。川を渡って攻めて来た楚の軍に、宋の襄公が相手の陣列を整えるまで待ったために大敗し、襄公自身もその時の傷がもとで死ぬことになったという故事。「無用の情け」の同義語として使われています。
一応、襄公自身のコメントを。
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国人がみな公のやり方をとがめたので公はいった。
「君子は一度傷ついたものをまた撃つことはしない。白髪まじりの老人は虜にしない。古の軍は難所につけ込んで敵を撃つことはしない。わしは亡国(殷)の子孫ではあるがまだ列を成していない敵に鼓を打って打ちかかることはしたくない」
(筑摩書房『世界古典文学全集 第13巻 春秋左氏伝』78ページ)
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これに対して子魚という人が「負傷者を助けるくらいならはじめから傷つけないほうがましだ。白髪まじりを哀れむくらいならこちらから降参した方がましだ」と反論しています。
戦争そのものに反対することと、戦争における法・ルールを遵守することは確かに違います。しかし、戦争時であれば老人でも負傷者でも構わずに殺して勝ちにいくべきだ、という子魚の論には賛成できません。
今回参照した筑摩書房版の『春秋左氏伝』には、西暦対象年表と各国公室系図がついています。それによると、平和会議を開催した向戌は襄公の弟(公子向)の孫にあたります(514~516ページ)。遺伝というよりも、宋の国の歴史を向戌なりに受け止めたゆえの行動であったように思います。