核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

弭兵の会の拘束力と、その終焉

 古代中国の、弭兵(戦争廃止)会議については何度も書きました。

 では、その会議に背いて戦争をする国が出たらどうなるのか。

 今回、『春秋左氏伝』の続きを読んで、その答えが見つかりました。

 

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 魯の季武子(季孫宿)は莒(きょ)の国に攻め入って鄆(うん)を取った。莒の人はそれを虢(かく)の会合で訴えたので、楚は晋に申し入れて、「戦争をやめようという盟いを再び行って、まだ散会もしないうちに、魯が莒を伐つとは、一同で結んだ盟(ちか)いをあなどりけがすものだ。魯の使節(叔孫豹)を殺してほしい」といった。

 (『新釈漢文大系 第32巻 春秋左氏伝(三)』明治書院 一九七七 「昭公元年」(=紀元前五四一年 一二〇二頁)

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 外交使節を殺せとは物騒ですが、とにかく、弭兵の会の拘束力はまだ有効だったわけです。一方、同じ昭公元年には、「晋の中行穆子は、無終と群狄の軍を大原で打ち破った」(一二一九頁)ともあり、異民族相手の戦争は弭兵の対象外だったことがわかります。ちょっと向戌の評価を下げねばなりません。

 その後も、「宋の盟い」についての言及はいくつかありますが、明白な中国諸侯間の戦争が起きるのは昭公四年(紀元前五三八年)。

 「秋七月に、楚子は諸侯を率いて呉を伐った」とあります。その直前の記事では左師(=向戌)が、子産という人物の「楚の君はおごりたかぶって諫めに従いません。十年とは持たないでしょう」との発言に同意する様が描かれています。弭兵の精神はこの時に終わったと見ていいでしょう。

 弭兵の会は紀元前五四六年なので、諸侯間の平和が続いたのは八年ということになります。以前、どこかで「十二年の平和」と書いてしまいましたが、速やかに訂正します。