アリストパネス最後の作品。
嘘つきや悪人が富み栄え、正直な善人が損をする、そんな社会。
富の神プルートスには見る目がないのではないか、といわけで、プルートスの眼を治療する計画を立てた主人公クレミュロス。その前に、貧乏の女神ペニアーが現れ、計画を止めようとします。
彼女が言うには、
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もしプルートスの眼が再び見えるようになって、自分自身、つまり富を平等に分配するようになったなら、人間たちの誰ひとりとして、技術(テクネー)や技芸(ソピアー)に関心を払う人はいなくなるだろう。
(略。そうなったら誰が農業や手工業を営むのか)
もしもこれらの仕事を全く気にかける必要もなく、働かずに生きてゆけるということになったのなら。
(一三四ページ)
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……「奴隷がやってくれる」と反論する主人公に、みんなが豊かになれば奴隷商人もいなくなる、貧困があるからこそ生活必需品を作る人々が存在するのだとペニアーは論じます。
主人公は強引にペニアーを追い払い、計画を決行します。富の神が人を見る目を取り戻した結果、正義の人はたちまち金銀象牙に取り囲まれ、奴隷までが金貨で遊ぶようになります(でも身分はそのまま)。
一方では愛国心を売り物にしていた告発者が没落し、金で愛情を買っていた老女が恋人に逃げられるなど、しわよせを食う人々も描かれます。
ゼウスをはじめとする昔ながらの神々は崇拝されなくなり、プルートスが新たにゼウスの座についたことを暗示して、劇はめでたく終わりとなります。
本当にめでたいのか。この劇も研究者の間で論争を読んでいるらしく、安村典子氏による同書解説はそれら諸説を的確に整理しています。
私はというと、ロールズ対ノージックとか、平等主義対リバタリアニズムとかいった言葉が頭をぐるぐるして、どちらとも決めかねております。最低限、まじめに働く人間が報われる社会であってほしいと願うばかりです。アリストパネスの真意はわかりません。