エンデの「自由の牢獄」という短編は、非常にもやもやとした読後感を残します。で、もしあの牢獄に入れられたのが、中途半端にギリシア哲学にかぶれたイスラム教徒ではなく、自由意志の断固たる信奉者、たとえばこち亀の両さんだったら、とつい考えてみまして。
「アッラーなど信じん!わしは競馬で鍛えた自分の勘を信じる!」
とかいって、適当な扉を開けそうです。獅子や大蛇が出てもなんとかしそうですが、
「両津のバカはどこだ!?」
という部長の声が聞こえてきたら、さすがに開けるのを躊躇するかも。
閉じ込められたのが範馬勇次郎だったら。これも獅子や大蛇じゃ相手にならないでしょうが、外からドアノブを逆に回されて、
「おッおッお!?」
になったら・・・・・・逆に喜びそうだな。
何が言いたいのかというと。
自由意志が無知の別名だというなら、決定論は弱さの別名、という論も成り立つのではないかと。