ああ、なんてクリスマスにふさわしい話題なんだ。
図書館に可及的速やかに返さねばならない本なので、後半は手短にまとめます。
一般にキリストと呼ばれるナザレ人イエス。この人物が信者の言うほど賢明で善良であったかどうか。
福音書における彼の言行は、おおむね「間違ってはいないけど本人にさえ実行不可能なこと」か、「実行可能かは別として間違ってること」のどれかばかりだ、というのがラッセルの論です。
前者の例。訳文は『世界の大思想26 ラッセル』河出書房新社 昭和41によります。
「悪にさからうな。あなたの右ほおを打つ者があれば、誰であれその人には左のほおをも向けなさい」
「人に裁かれたくなければ、人を裁いてはいけない」
「あなたから借ろうとする人から、身をそむけないように」
「あなたがもっているものをどこかへいって売り、貧しい人々に与えなさい」
キリスト教徒たちの国家や教会がこれらと逆のことばかりしてきたことは、ラッセルを引用するまでもありません。問題は信者よりも教祖自身です。彼はこうした発言にふさわしい人格の主であったか。
彼はくりかえし、地獄だの永劫の処罰だのについて語っています。愛の人という一般的なイメージとは逆に、聖書に出てくる彼はいつも怒ってばかりいるのです。実がなっていないという理由でいちじくの樹に呪いをかけ、ブタの群れを意味もなく悪魔にとりつかせて海でおぼれさせ、神殿で商売をしている人たちを暴力で追い払い・・・。作り話だと言われればそれまでですが、その場合は作者(たち?)の文学的才能のなさが問題にされるべきでしょう。そして、その作り話に倫理的な疑問を抱かなかった読者たちの側は、もっと問題にすべきです。
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戦争を漸減させる方向へのあらゆる方策、さらにさまざまな有色人種の待遇改善のためになされたすべての動き、あるいは奴隷制度の緩和措置のすべて、かつて世界に存在したあらゆる道徳的進歩、等々のものに、世界中の組織された教会は首尾一貫して反対してきたのです。
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・・・道徳というものは地獄への恐怖ではなく、世界をよりよくしたいという自由な意志にもとづかなければならない。というラッセルの結論に私は同意します。
ただ、キリスト教徒だろうとほかの宗教だろうと、教義や教団と関係なく、末端レベルで善良な人たちは(なぜか)存在する、というのは、私もみとめざるを得ないところです。木下尚江もさることながら、私はチェスタトンのことを考えるとき、彼こそ最大の「とけない問題」と思うのです。