核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

夏目漱石の限界。

 前にも書きましたが、私は卒業論文で『夢十夜』を、修士論文で『明暗』を、博士課程入学試験論文で『坑夫』を扱ってきました。その私がなぜ漱石に見切りをつけたか、手短かに実例をあげて説明します。

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 どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。成程世界に戦争は絶えない訳だ。個人でも、とどの詰りは腕力だ。
   夏目漱石 『坊っちゃん』 一九〇六(明治三九)年 引用は新潮文庫(平成元年)による
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 ・・・片言隻句をとりあげてあらさがしをするつもりはありません。日露戦争下にはもっと露骨な『従軍行』なる戦争賛美詩を書き(なぜか青空文庫未収録。いずれ紹介します)、大塚楠緒子の反戦詩を「女のくせによせばいいのに」と、書簡で嘲笑しています。
 (2012年2月1日追記 「反戦詩」ではなかったようです。後日訂正文を書きますが、論旨に変更はありません)
 私は彼の全集収録文はあらかた読んだはずなのですが(白状しますと英文と漢詩は読めませんでした)、どこを読んでも、絶対平和主義はおろか平和優先主義すら見出すことはできませんでした。彼が徴兵忌避者であったという伝記的事実をあげて弁護する人もいるかもしれませんが、ヒットラームッソリーニブッシュジュニア三島由紀夫も徴兵忌避者であったという事実を忘れてはいけません。倫理ではなく恐怖ゆえに戦争を嫌う者は、自分が危険にさらされないと知るや、他人を戦争に送り出す側に転じうるのです。私は徴兵忌避という行為自体を責める気はありませんが(責められるべきは徴兵を行う側です)、自分の代わりに誰かの身を危険にさらしているのかもしれない、という痛みは感じてほしいと思っています。『草枕』や『趣味の遺伝』での出征者の描かれ方や、『点頭録』での他人事のような軍国主義観(軍国主義賛美でないことは認めます)を見る限り、漱石が痛みを感じていたとは思えません。
 「漱石は平和主義者ではなかったかもしれないが、彼の人間を見る眼は同時代の平和主義者なんかよりもすぐれている」といった反論があるかもしれません。
 私はむしろ漱石の人間観は、同時代(正確には少し前。明治20~30年代)の平和主義小説家たちよりもはるかに浅薄だったと思っています。前期の作品『二百十日』には「血を流さない」「文明の革命」という言葉も出てきますが(恥ずかしながら、私はこれで論文を書こうとして挫折したことがあります)、その具体的なヴィジョンはついに一言も語られません。くり返されるのは「華族や金持ち」への、なんら具体例や解決策をともなわない幼稚な罵詈雑言のみであり(『二百十日』に限ったことではありませんが)、私は同作品を平和主義小説に数える気はありません。
 『こころ』の如き後期作品については、前期よりもさらに浅薄です。明治天皇睦仁や乃木希典への恥ずかしげもない追従を抜きにしても、あの主人公の言動には一片の誠実さもありません。だいたい、明治の精神とは天皇の一人や二人が死んだぐらいで終わるものなのか。かつて「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有っている」と書いた諷刺精神は、『こころ』では完全に骨抜きになっています。
 結論。漱石をどういじくりまわしても、「実現可能性のある平和主義」や「地球環境を破壊しない代替エネルギー」「科学技術の進歩に追いつき、制御しうる倫理」といった問題への答えは出てこないと、私は見切りをつけた次第です。『坑夫』という作品にだけは、まだ未練もあるのですが。
 上記の問題をすべて扱った、村井弦斎の『日の出島』(漱石がデビューする前の大ヒット作です)を私に代わって論じてくれる、気概ある文学研究者はいないものでしょうか。私は豊富すぎる鉱脈をもてあましているのです。