私はプラトンが出した結論(イデア論とか哲人政治とか民主制否定とか詩人追放論とか)にはほとんど賛同できないのですが、プラトンの書き方、つまり対話形式で哲学を書いたことは、偉大な発明だと思っております。
形のない、抽象的な思考というものは、思うままにしておくと、堂々めぐりに陥ったり、独断のおもむくままに暴走したりしがちなものです。そこで、思考をほどよく刺激する、初歩的な質問を寄せるボケ役、矛盾点に鋭く切り込むツッコミ役がいると、形がないはずの思考がそれなりに形をとって見えてくるわけです。プラトンの前期対話編の面白さはそこにあります。
じゃあ、なぜプラトン対話編の集大成といわれる『国家』の結論(イデア論とか哲人政治とか民主制否定とか詩人追放論とか)に賛同できないのかというと、『国家』の第二巻後半以降をお読みになればわかるのですが、対話編ならではのチェック機能が働いていないからです。正義の個人についての論が、正義の国家についての論にすりかわった時点で、グラウコンはソクラテスを止めるべきでした。
別の哲学者の例をあげますと、デカルトの『省察』なんてのは、デカルトが一人で書いた部分は独断的で、今日の読者が読むのはつらいのですが。各界から寄せられた反論にデカルトが答弁する後半部分は実にスリリングで、特に「動物に魂はあるか」についての論戦は、今日でも十分に読み応えがあります。岩波文庫や青空文庫版で、後半部分が訳されていないのは残念なことです。
2022・7・7追記 「正義の国家」に話が変わるのは第二巻でした。訂正。