核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

フロイトと星一の、対照的な戦争観

 まず前にも引用した、フロイト第一次世界大戦当時の戦争観を。

 

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 戦争が廃止されることはないだろう。諸民族の生存条件がこれほどまでに多様であり、諸民族の間の反発がこれほどまでに激しいものである限り、戦争は存在せざるを得ないだろう。そこで次のような疑問が生ずる。われわれは、膝を屈して戦争に適応するような存在であってはならないのか。

 フロイト「戦争と死についての時評」(初出一九一五 『フロイト全集14』岩波書店 二〇一〇 一六五頁)

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 フロイトは戦争神経症者の治療にもたずさわっていたそうです。「戦争が廃止されることはない。膝を屈して戦争に『適応』しろ」と、戦場を恐怖する哀れな兵士を「治療」し、また戦場に送り出していたのでしょう。上記のようなフロイトの戦争観に、私はまったく同意できません。

 一方、同じ第一次世界大戦期、日本の製薬業者である星一は、未来小説『三十年後』でこう述べています。

 

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 世界の人類総てが健全の思想を持つ様に成れば、戦争なんか起こしやうが有りません。既う独逸のカイゼルの様な頭の狂つた人間は絶滅に近寄つて居りますので、軍備を充実させる必用は有りません。現にカイゼルもあの世界の大戦の後に、未だ懲りないで大野心を起さうとして、種々陰謀を廻らしかけたのですが、星の平和薬を服してから性格が一変して、元の狼が羊に成り、軍国主義を放棄して了ひました。然ういふ風に永遠の平和時代が来てゐる訳なんです。

 星一『三十年後』(一九一八(大正七)年)

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 狂っており、治療されるべきなのは戦場に出たがらない兵士ではなく、他人を戦場に駆り出す指導者だという発想。同じ戦時中の意見でありながら、フロイトの戦争観よりはるかにまともです。

 星一にも再検討すべき点はあるかも知れません。カイゼル(ドイツ皇帝)のような戦争指導者にどうやって平和薬を飲ませるのかとか、もう一方の戦争指導者である大正天皇には飲ませなくていいのかとか。そもそも「健全」は誰が定義するのかとか。

 しかし、戦争指導者の治療など考えもせず、戦争神経症者を戦争に適応させる治療をめざすフロイトは・・・・・・はたして正気なのでしょうか。私は疑います。