核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

TRPGと愚行権、あるいは冒険する自由

 昨日の記事はTRPG(テーブルトークロールプレイングゲーム)ネタばっかだったので、ゲームに関心のない方、「核兵器および通常兵器の廃絶」というブログ名で検索なさって来た方は、「いったい平和主義と何の関係があるんだ?」と思われたかも知れません。関係は今のところうまく説明できませんが、自分なりの意見を述べてはみます。

 TRPGというゲーム、ことにその元祖であるD&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)は、教育に悪いという批判をたびたび受けてきまして。ある宗教のサイトでは、

 「「神々」のページを見ても、ゼウスやラーのような架空の神々は出てきますが、まことの主エホバについては一言も書かれていません」

 という批判があったと記憶しています(今検索してもでてこないので、そのままの文章ではありません)。そういう方々が理想とする「教育」には悪いのでしょう。

 特定宗教の批判をしたいわけではありません。ただ、一神教的な宗教が提示する世界像と、TRPG的な世界像(コンピューターRPGはまた別として、テーブルトークRPGの世界像)はどうも相性が悪い気がします。架空の神々とか戦闘とか魔法とか悪魔が扱われているからという表面的な理由ではなく、もっと構造的に。

 なぜコンピューターRPGはまた別なのかというと、いくら自由度の高さを謳ったゲームでも、冒険の展開や結末はあらかじめデザイナーによってプログラムされているからです。デザイナーが「正解」とプログラムした行動をとった時のみ物語は進むので、エンディングを見たいゲーマーは、デザイナーの意図を読み、プログラムに従順に行動せざるをえません。もちろん、よくできたCRPGは正解当てクイズの地金が出ないよう、演出の妙を尽しているわけですが。

 TRPGでも、おおまかな展開や結末はゲームマスターがあらかじめ用意しておくわけですが、正解当てのクイズではありません。昨日私はドアが木製だとか鉄製だとかの話を書きましたが、ドア一枚をめぐっても、マスターとプレイヤーの白熱の知恵比べが起こりうるのがTRPGなのです。マスターが想定していたよりもうまい解決法をプレイヤーが思いついたり、サイコロで予想外の目を出せば、マスターはそれに服さざるをえません。もちろん、うまくない解決法、愚行としか思えない行動をプレイヤーが宣言した場合も、それなりの対応を考えるのがマスターの腕なのですが。

 同じように異世界を舞台にした、勇者が魔王を倒す式の冒険ものでも、CRPGTRPGではこのような違いがあるわけです。デザイナーないしマスターの裏をかき、抗い、愚行さえできるPRAY、じゃなくてPLAYができるかどうかの差です。私はCRPGも好きなのですが、この歳になるとどうも、愚行を受け入れてくれるTRPGのほうが肌に合うようです。

 そろそろ結論ですが、TRPGは確かに、ものすごく「教育」に悪いゲームのようです。正解到達主義の方や、「万物は主によってデザインされた。主のプログラムに従順であれ」という反進化論の方が考える「教育」には。やめた方がいいですね。