核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

正解到達主義ではなく、最適解到達主義を

 前々回では、C(コンピューター)RPGはどうしても正解到達主義、つまりデザイナーの意図を読んでそれに従順でなければ先に進めないゲームになってしまうという話をしました。

 一方、T(テーブルトーク)RPGは正解ではなく最適解を、マスターとプレイヤーが共同で探すゲームであり、マスターが事前に用意した「正解」にたどりつく必要はないゲームであるとも書きました。

 現在、国語教育の場にいない(コメント欄で誤解なさってた方もいましたが)、私があえて言いますが、文学作品の教育に関する限り、CRPG型(=正解到達主義)ではなく、TRPG型(=最適解到達主義)を採用すべきだと考えます。

 それは「なんでもあり」「読みのアナーキー」への道だという声もどこからか聞こえてきそうですが、それは違います。文学解釈の場においても、討論によって誤読だと確定できる解釈というのは明らかに存在します。明白な誤読を討論によって斥けていった上で残る、最善最適と思われる読解を先生と生徒の合意のもとに導き出す。たとえそれが先生が事前に用意した正解と異なるものであっても。そういう文学教育であれば、私も喜んで尽力したいです。

 しかし問題は、そうした教育は、マークシート記入式の共通テストなんかとはものすごく相性が悪いということです。そこで第二の提案ですが、文学国語はコンピューター採点ではなく、筆記のみにするべきです。美術・音楽・体育大学などの入試をマークシート式のみでやったらえらいことになるのと同じことです。あえて諸家の多数意見に背きますが、正解が一つに決まる論理国語と、一つに決まらない文学国語は分離すべきです。