核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

文学を教える意義

 いい歳して今さら何を、と思われるかも知れませんが。私にとっては切実な問題です。

 あまり大きな字では書けませんが、私は文学国語と論理国語の分離には賛成です。

 法律、経済、企業や行政の仕組み、筋道立てた議論の仕方といったものは、成人にとって必要不可欠でありながら、従来の教育では重点を置かれてきませんでした。漱石や鴎外や、ましてや非論理の極みのような小林秀雄なんかを読ませるより、論理的な思考を養わせるほうが優先されるべきだと思います。

 では、論理的ならざる文学作品を、教える意義とは何か。一言で言って、論理国語では解決できない問題の解決のため、ではないかと考えます。いわば人生の裏ワザ。

 人間関係(恋愛含む)の悩みというのは、論理だけでは解決しがたいもので。理屈よりも先人の実体験や苦闘ぶりを聞かされるほうが、身につくものです。

 ただ、文学には負の要素、毒もあります。先人の苦悩に感情移入するあまり、必要以上に暗~くなってしまうことも(私の青春時代がそうでした)。そんな文学の毒を薬に変える方法を教えるのも、文学教育の役目ではと考えております。

 ただ、そうした教育がどれほど受験体制になじむものかは疑問です。少なくとも私は「ここ入試に出るぞ~。ばんばん」式の教育はどうしてもやりたくないのです。文学教育は入試採点とは別の場でやりたいものです。