核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

美園勉「<エッセイ>神々も支配者もいない --非促進型(GMなし)デザイン枠組みの概要」(『RPG学研究』 3 70e-81e, 2022-09-30)

 気になる題名の論文です。CiNiiで読めるのですが、本論は英語なので敬遠していました。とりあえず日本語の抄録を引用します。

 (と書いた直後に、日本語で読めることに気づきました!その感想は後述)

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 2013年に始まった「ブラック・ライブズ・マター」(黒人の命は重要)の行進をはじめとする分散型社会正義運動の高まりと同時に, ロールプレイングゲームデザイナーは, LARP(ライブアクションロールプレイング)とTRPG(テーブルトップ・ロールプレイングゲーム)の両方で, 私たちの遊び方の物語構造に批判的な視点を投げかけてきた. これらの運動が, アウトサイダーとされるアイデンティティを持つ人々, つまり人種的マイノリティのメンバーや, 他の人々よりも機会や発信力が少ない人々が, 社会の構造的不平等に抗議するのと同様に, 従来のゲームの構造的不平等を批判がある. 例えば, 異なるバックグラウンドを持つ人々にロールプレイングゲームへの関与を躊躇させる一因に「ゲームマスター」ありきの従来のゲームの構造にあると考える. ゲーム体験を調整し促進する「ゲームマスター」は, 当然ながら他のプレイヤーと比較して, 物語に影響を与える大きな非対称の力を持つ. これは実際の社会における他の非対称(さらには不当な)構造に似ている. こういったゲームは, この役割が常に必要とされるわけではなく, プレイを阻害する可能性に言及している. これに対してゲームマスターのいないゲーム, 「GMなしゲーム」は, しばしばプレイヤーによる創造的な道を拡大する可能性を持つ. 一人ひとりのプレイヤーの想像力の制限を, ゲームの支配者たるGMから解放するからだ. 本稿では, まずゲームマスターの役割に関連する従来の役割・責任を明らかにする. またLARPとTRPGの両方において, 公表されているGMなしのデザインが, それらを再構築, 再ミックス, また再解釈されて, より平等で, 多くの人にとって魅力的な遊びを可能にしていることを論じる.

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 私はTRPGでのGM(ゲームマスター)を、「支配者」ではなく「調停者」、「主人」「君主」ではなく「熟練者」と考えているので、GMありのゲームが「実際の社会における不当な構造に似ている」とは思いません。よって、美園氏の主張に今すぐ賛同するわけにはいかないのですが(明日GMやる予定だし)、考えさせられるご論ではあります。

 先ほど日本語で美園論を読めることに気づきました。同論はGMなしゲームの多数の例を紹介なさっていました。

 無神論者だけど無政府主義者ではなく、GM・PL(プレイヤー)のどちらでTRPGに参加するのも大好きな私としては、異議はもちろんあります。調停者たるGMがいないTRPGでは、ルールその他をめぐる対立を、誰がどう調停するのか。伊藤野枝の小説にはひかれつつも、その無政府主義や随筆「無政府の事実」には共鳴できなかったように、美園論にも全面的に賛成はできません。しかし、念頭には置いておこうと思います。