もしかしたら現代心理学に適切な用語があるのかもしれませんが、私の心理学は後期フロイトで止まっているので、とりあえず「差し違え嗜好」と命名することにします。
「思考」の誤字ではありません。断じて。
ゲームでも各種ギャンブルでもいいのですが、多大なコスト(時間、お金など)をつぎ込んだにもかかわらず、期待していたリターンがなかったという場合はよくあります。そういう時、人は「これだけ犠牲を払ったのだから、そろそろいいことがあるに違いない」と考えがちです。さらには、「もっと大きな犠牲を払えば、天もそれに報いるはずだ」などと。原始的な呪術型心理であり、そんなんで勝てるはずがありません。ゲームにもギャンブルにも、戦争にも。そういう心理を「差し違え嗜好」と命名します。
たびたび名前を出しますが、大本営発表の責任者である平出英夫という海軍大佐が、差し違え嗜好にとりつかれた典型です。真珠湾奇襲の時点で、彼は「九軍神」の犠牲攻撃をほめたたえ、起きてもいない航空機の自殺的攻撃を熱く語り、小林秀雄を感動させています。無事生還した兵士へのねぎらいの言葉は一切ありませんでした。
北原白秋の戦争詩『大東亜戦争 少国民詩集』もまた、「自爆」「体あたり」「差し違へ」への嗜好に貫かれています。
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見ろさしちがへ戦法だ。
撃沈、撃沈、また撃沈、
空母は見る見る沈んでく。
一二三四五六七。
(「航空母艦」『白秋全集28 童謡集4』四一三頁)
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米空母ヨークタウンの撃沈は潜水艦の攻撃によるもので、「さしちがへ戦法」でもなければ「一二三四五六七」でもないのですが。北原白秋は殺さなければ気が済まないのです。敵ではなく味方の兵士、日本人を。
以前にも書きましたが、「差し違え」「相討ち」に興奮する心理は私にも覚えがあり(幼少時に見た『宇宙戦艦ヤマト』とかにですが)、まったく理解不能ではありません。しかし、現実の戦争で、起きてもいない差し違えを讃えるのは、戦争遂行者にとっても戦争反対者(少数ですがいたのです)にとっても有害でしょう。
神風特攻隊が制度化されるのは北原の詩の「後」です。
そんな昔の人の話はどうでもいい?昔の話でもありません。差し違え嗜好とおぼしき指導者は現代にもいます。「大きな犠牲を払えば、それにふさわしい成果があるはずだ。もっと犠牲を!」と考えているとしか思えない、神風特攻隊を命じかねない指導者は。