「文学の面白さとは何か」とか、「小説の面白さとは」となると、私ごときの手にはあまりますが。物語の面白さについてなら、自分なりに語れそうです。
可能性の拡散と収束。「次は何が起きるかな」という、どきどきわくわく感。
たとえば『水滸伝』の序盤から中盤にかけては、「次はどんな変なやつが登場するかな♡」という期待が読書欲を支え、終盤では、「次は誰が退場するかな🖤」というスリルが最後までページをめくらせるわけです(百二十回本限定。もしかしたら私限定?)。
旧来の構造主義とか物語論というやつは、どうもフライドチキンを食べた後の骨だけを分析して、「物語なんてどれも同じ」と言っているような気がしてなりません。それでは趣向をこらした作者がかわいそうです。フライドチキンのおいしさは肉を食べている間にあるように、物語の面白さは読んでいる最中のわくわく感にあるのです。
なんとか、上記のような「可能性の拡散と収束」論を論文の形にまとめ、自分なりの作品論の方法論を確立したいものですが、すでにあるかも知れません。