核兵器および通常兵器の廃絶をめざすブログ

近代文学研究を通して、世界平和を考えています。

物語の自由度論(とりあえずゲームブックに限定して)

 たとえば、前回紹介したゲームブックの一つ、「笹の葉さらさら」(『POPCOM』1986年7月号掲載)。

 織姫を探し出すのが目的なのですが、牡羊座から魚座までの黄道一二星座の、どこから探索を始めてどの順番で進んでもよいという、自由度の高い作りです。

 一応、何度もやってれば最適解はわかってくるのですが、そこに至るまでのわくわく感が楽しいのです。「次はどこに行こうかな?」「何が起こるかな?」という。

 そしてたどりつける、意外ながらも納得のいく結末。可能性の拡散と収束とでもいうのでしょうか。普通の小説では味わえない、ゲームブックの醍醐味です。

 とはいえ、ゲームブックでも自由度を感じさせない、ほぼ一本道の作品はありますし(だから駄作というわけではありませんが)、小説であっても、あたかも「自由度」があるかのように錯覚させてくれる作品はあります。小説読者における自由とは何か、となると私の手には余りそうなので、今回はゲームブックに話を絞ります。

 どんな選択肢を選んでもハッピーエンドに至る予定調和的なゲームブックもあれば、どんな選択肢を選んでも悲劇的結末に至る鬱ゲームブックもあります。また、多数出てくる選択肢の中から常に正解を選ばないとゴールに着けない一本道ゲームブックもあります。どれも「あり」だとは思うのですが、私が思い浮かべている、ゲームブックならではの「自由度」を持つものではありません。次に行く道を自分で選択できるだけでは、「自由度」につながらないのです。

 では、「自由度」とは何か。今思いついたのは、「複数の目的」です。大魔王を倒すのが目的のゲームブックでも、「エンディングまでに金貨を何枚ためられるか(ヴァルギニアプレイ)」「入手困難なアイテムをゲットできるか」といった小目的を読者側で設定すれば、寄り道をしたり、最適解でない選択肢を選ぶ意義も出てくるわけです。

 『サソリ沼の迷路』というゲームブックでは、そうした要素がシステム自体に織り込まれていまして。善い悪い中立の三人の依頼人の誰を選択するかで冒険の目的が変わり、同じ迷路でも違った相貌を見せてくるわけです。迷路内を後戻りでき、往復可能なことも含めて、「自由度」を感じさせてくれる傑作でした。

 「自由とは何か」という問題は大きすぎますが、「自由度を感じさせるゲームブックとは何か」なら、少しは答えられそうです。「右に行くか左に行くか?」だけではなく(そういう選択肢もあってもいいけど)、読者に生き様そのものを問うようなゲームブック